「加藤木 甕」

 

mika00.JPG (41203 バイト)     

加藤木甕」                                「蕗」     

加藤木甕(みか)は嘉永5年(1852)3月18日、父賞三と 母魚津(なつ)との間に生まれた。母なつは文政10年(1827)5月21日に相模国愛甲郡中津村の庄屋熊坂家に生まれ、嘉永2年(1849)の晩秋に23歳で当時水戸藩門閥派のお尋ね者であった35歳の賞三と結婚した。なつは結婚後一年余水戸藩側用人某の家に奥女中になりすまして隠密(スパイ)として潜入し命懸けの役目を果たすこととなった。甕を孕んだのはその奉公が明けてすぐということになり、妊娠と同時になつはほとぼりを冷ますため暫く故郷の相模に身を隠すこととなった( 甕出生の記録には 「江戸水戸藩小石川上屋敷内」 とあるが実際には相模国のなつの実家で生まれたと推測される)。

安政2年(1855)41歳の父賞三はその働きを認められ士分に取り立てられたため、その冬3歳の甕もようやく母なつおよび弟一雄ともども江戸の水戸藩上屋敷に移りすむこととなった。ところが母なつは安政4年(1857)5月女児「くに」を産み、産後の肥立ち悪く6月末日享年31歳で死亡してしまった(戒名 霜松院烈誉後凋清信女)。その後、 安政4年(1857)12月5日賞三は後妻もとを貰いうけた。もとはなつと同じ神奈川県愛甲郡中津村に大野権四郎の長女として天保7年(1836)8月23日に生まれ、なつの亡くなった当時は父賞三のもとに見習奉公として預けられていた。賞三はまもなく安政の大獄との関連で安政6年(1859)10月29日、「永押込」を命ぜられ、以後文久2年(1862)8月までの足掛け4年間幽居することとなった。そのときの生活はよくよくつらかったと見え、当時7歳から11歳という多感な年頃の甕も蟄居生活により相当な苦労を味わった。文久2年(1862)8月に蟄居生活から開放されたのも束の間、元治元年(1864)3月には天狗党の乱が起き、鎮派の有志であった父賞三は慶応2年(1866)に水戸を脱走し再度江戸に潜入することとなった。その後大政奉還をはさんだ数年間の賞三の消息はよくわからないが江戸に潜伏していたものと思われ、前後の状況から14歳の甕は家族共々、恐らく妻もとの実家であろう相模に預けられたと考えられる。 またこの間 甕は横浜の宣教師の処でボーイとなり 英語を勉強していたとの伝えもある。

父賞三は明治2年(1869)には、士族授産事業のため静岡藩の雇(やとい)となった。このときの活躍が認められ、明治5年(1872)には大蔵省勧農寮(局)に出仕することとなったが、翌明治6年(1873)2月、望郷の念堪えがたく職を辞して、相模に預けていた家族を引きつれて水戸に帰った。賞三59歳。21歳の甕も父と共に水戸に帰郷したが、甕が洋学を志していたため、これが水戸の攘夷派の強い反感を買い、拉致されて殺されかけた。このため、父賞三は22歳の甕を直ちに上京させ、かねての知己であった前島密について駅逓伝習生とさせた。このころの伝習生教育は英語を重要視し、甕はここで語学を身につけた。またここで島田三郎氏と知り合い終生交誼を結んだ。伝習生卒業後、甕は横浜、神戸郵便局に勤務したが、明治8年(1875)に上海郵便局の設置について局長として赴任を命じられ、赴任を前にして明治8年(1875)11月10日、雨宮忠平氏の 長女ふきと結婚した。 媒酌人は 西南役において熊本城司令官であった谷干城将軍と伝えられているが 他説には彰義隊の本多晋氏とも言われている。 ふきは文久3年(1863)2月5日、静岡県高田郡金谷村に生れた。甕23歳、ふき12歳の若い結婚であった。甕は上海では郵便局長の傍ら領事代理を勤めたりもした。上海赴任を前提に結婚したこともあり、ふきは英語の素養がありおおいに甕を助けたという。

上海領事館はすでに明治5年(1872)2月20日に品川忠道氏を領事に迎えて 郵船埠頭の西側(現在の大名電影院付近)に開設されていた。 上海郵便局は 明治8年(1875)4月に その領事館の中に 甕を迎えて開設された。 このころは日本からの移民も大量に上海に移住し 最多時には虹口呉淞路、溧陽路、百老匯路(現在の東大名路)、東武昌路一帯には2万人を超える日本人が在住し のちに「小東京」と呼ばれ、日本的な家屋が雨後の筍のごとく建てられたという。 明治9年(1876)には 東武昌路に東本願寺上海虹口分院が建立され、宗教行事や集会などに広く利用された。 東本願寺の建立式典には恐らく甕も参加したことであろう。

上海に現存する建築はその殆どが 上海が大発展し「魔都」と呼ばれていた1920−30年代のものであり 甕の赴任していた当時の建造物は わずかに 「 徐家匯天主教堂」の前身の建物(1842年建立)とデンマークの海底電線敷設会社の「大北電報公司」の建物の2つのみであるが これらについては詳細を調査中である。

甕は

明治10年(1877)には、足掛け2年間の上海勤務を終え 長崎国際電信局長として帰国し、明治15年(1882)まで5年間ここで勤務した(帰国前一時天津の領事を務めたという説もある)。 長崎在住時の明治12年(1879) 1月5日長男常男が生まれた。このとき甕27歳、ふき16歳。長崎国際電信局は開港場の一等郵便局で、外国船が入港すると、夜中でも勤務しなければならなかった。また甕の転勤前の長崎局では、何か問題が起っていたようで、朝は早くから客がつめかける、晩には毎晩のように酒盛りが始まり、年若いふきにはその応対ができず、芸者を一人常雇いにしていたという、今では考えられない郵便局長の生活振りであった。処が、明治15年(1882)水戸の父賞三が病気で寝込んだという知らせが来ると、30歳の甕は親孝行の一念で、辞職までしなくてもとの忠告も耳に入らず、あっさり職を退いて身重の妻ふきと長男常男を連れ水戸に帰った甕は水戸において明治15年(1882)12月27日、病気のため退職した父賞三の後を継ぎ、県属を拝命した。また、ふきは人に頼まれては婦女子に英語の手ほどきをしていた。翌明治16年(1883)4月18日長女梅子(後に平川正寿氏に嫁す)誕生。このとき甕31歳、ふき20歳。甕はその後郡書記を勤め、行方郡、久慈郡と県内の郡を転々としたが、明治25年(1892)には東茨城郡書記に就任し、40歳の甕は再度水戸に帰り、老父母と同じ屋敷内に住み、孝養を尽くした。甕の帰宅がおそいと、賞三は「甕はまだか」と聞きに来る。毎晩二人で晩酌をするが、それがまた長い。しまいには十時過ぎになったという。老父相手の楽しい晩酌も、そう長くは続かなかった。先ず賞三の妻もとが流感で寝込み、ついで賞三が枕をならべ、更に一家中に感染した。甕は40度の高熱の身で、杖にすがりながら両親を見舞った。ある日賞三は見舞いの客に「私はもうすっかりよくなりました。明日は清々して起きられましょう」と言ったものの、遂に再び起つこと能はず、明治27年(1894)4月18日、その生涯を終えた。享年78歳、水戸市の神応寺に葬られた。時に甕42歳、ふき31歳。明治31年(1898)10月 6日、次男正三(後にふきの生家雨宮家を継ぐ)誕生。このとき甕46歳、ふき35歳。

明治34年(1901)5月、甕49歳の年に家族一同キリスト教信仰を奉じた。 教会は「普連土」派であったと推察される。 甕は水戸の普連土教会のいわば信者総代といったものであったと、後日京都聖三一教会の佐々木邦牧師が孫の精一に語っている。

 明治39年(1906)3月26日、長男常男は佐藤ゆうと婚姻。

正三(10歳) 甕 蕗 (明治40年(1907)1月1日撮影)

その後、かつて父賞三をはじめ旧水戸藩士たちが尽力して明治11年(1878)に設立した第百四銀行(現在の常陽銀行)の経営が不振となり 経営立て直しの ために甕は乞われて支配人となった。 甕は在任中、融資依頼人が仕事に真面目で信用のできる者であれば、担保物件がなくても融資をしたという。 甕の孫の精一は、甕の没後 水戸市内の商店主たち (たとえば当時水戸で一流の鰻屋「かなめ」など)から  「あの節はお爺さまのお蔭でこの店も助かりました。 お蔭様でこのように商売をさせていただいております」 という挨拶を何度も受けたという。

また甕は、晩年水戸市の普連土協会で郷土の青少年に英語を教えていた。甕の孫の精一が京都大学在学当時通っていた教会(「聖三一教会」)の牧師は佐々木二郎と言った。ある日曜日、礼拝終了後、精一は信者の一人から「邦さんが見えているから会ってみないか」と誘われた。精一が「邦さんというと?」と尋ねると「ほら、ユーモア小説家の佐々木邦さんだよ。二郎ちゃん(愛称)の兄さんなんだ」という。精一も興味をもって一緒に牧師宅に行きお目にかかった。その時 精一が「加藤木と申します」と挨拶すると、邦さんが「加藤木さんとはお珍しい名前だが、若しかすると加藤木甕さんの・・・・」と言うので「その甕の孫です」と言うと「ああ、そうですか、それは奇遇だ。実は私が青山学院を卒業して就職口がなくて困っているときに、甕さんの招聘を受けて水戸の教会で英語を子供たちに教えて糊口をしのいでいたことがあるのです。やがて京城の商業学校の教師となったのですが、その間本当にお世話になったのです」と心から嬉しそうに話されたことがあると語っていた。

正三 と 甕 (明治42年(1909)ごろ撮影)

甕は当時 水戸禁酒会を組織しその会長となった。周囲の者の中には「あの大酒呑みが、禁酒会とは」と呆れた者もいたようであるが、本人は悟るところがあったのであろう。しかし永年の飲酒のためか甕は明治43年(1910)6月23日、孫の顔を見ずに永眠。享年59歳の若さで水戸市の神応寺に葬られた。 戒名 道友院善阿卓然居士位。 この時ふき48歳。

残されたふきには、翌明治44年(1911)3月17日に長男常男に初孫好江が生まれたが、常男一家は当時遠く東京に在住しておりなかなか孫の顔もみることもままならなかった。ふきは水戸において老いて一徹な継母もとが大正3年(1914)4月2日午後10時50分に亡くなるまで(享年78歳)東京の両親(雨宮家)への里帰りも一度もせずよく耐えて仕えた。もとが亡くなったときには周囲の者は皆ふきの忍耐をねぎらったという。後年、昭和10年(1935)頃、ふきの次男で雨宮家を継いだ正三が、ふきを水戸から東京へ連れ帰り、その後ふきは実家で安らかに暮らしたという。ふきは 戦後の昭和23年(1948)4月6日 東京で没した。 享年85 歳。 戒名 道光院禅室智定大姉。

 


甕の姪(妹直子の娘)村山しげるが その著「藻塩草」の中で甕について触れているのでこれを以下にこれを記す。

「伯父甕氏は嘉永五年三月十八日生れ、父o叟の国事奔走、謹慎、蟄居の間に育って具さに辛酸を嘗められました。当時水戸人は党争や人々をおとしいれることのみで誠に始末の悪い時代、甕氏は早く洋学に志したというので「そんな奴は殺して仕舞え」と拉致されたことがあったが、身を以て免れ事無きを得ました。それより上京して明治六年には前島密氏の駅逓伝習生となり、島田三郎氏と同学で終生交誼を結んでおられました。明治八年から十年にかけ上海郵便局長として領事代理を務めたりされましたが、上海赴任を前にして雨宮忠平氏の次女ふき子と結婚、当時26才花嫁16才「小さいお嫁さん」と云われました。仲人本多晋氏は幕臣彰義隊の一部将慨世の士でありましたが、大蔵省同勤の故でo叟翁と相識ったようです。本多氏は妻が雨宮家の長女うめ子、そして本多家の長女おせんさんを日本最初の女医にした先覚者で、おせんさんの夫君は有名なる林学博士本多静六氏です。伯母ふき子の父雨宮忠平氏は菲山藩主江川太郎左ェ門の家来だけあって、当時の進歩派断髪廃刀の先駆者で家人を心配させたり、東京の芝から横浜まで徒歩で石油買いに行き洋燈をつけたという方。娘ふき子には英語を学ばせ水戸へ嫁してからも人に頼まれては女子に英語の手ほどきをされました。(中略)

甕氏は明治十年から同十五年まで長崎郵便局長勤務でこゝで長男常男が生れました。其の頃の官吏は毎日の酒宴で、家には常抱えの芸者を置くという豪奢振り、部下から官金費消者を出す始末でした。明治十五年老父に仕える為辞職して帰国、老父の跡を受けて県属となりました。爾後行方郡、久慈郡、東茨城郡の書記をつとめ後百四銀行支配人として晩年に及ばれました。水戸に帰ったのは三十一才の働き盛り、夫人のふき子はやっと二十一才のうら若さでした。老父に奉仕の為とは云いながら未練もあったでしょう。それに上海、長崎あたりで生活した後、水戸の義父母に仕えるには、よくも自己を殺してと頭が下ります。殊に姑は継母に当り有名なる一徹者、そこを隠忍した伯母ふき子さんのえらさ「禅宗坊主」という名を奉って無言堪忍の徳を夫に称えられました。そして東京の雨宮の両親を省(せい)することさえ叶わぬ事十余年に及びました。明治16年4月梅子(平川正寿氏に嫁す)誕生、明治31年10月に生れた次男正三は、母の生家雨宮家を継ぎました。明治34年5月家族一同キリスト教信仰を奉じ、やがて甕氏は水戸禁酒会を組織しその会長となられました。これから生活一変して明治43年6月23日永眠、継母のもと子はおくれて大正3年4月亡くなりました。

私の母は此の時ふき子刀自に対しお棺の前にて両手をついて永年に渉る献身的な奉仕に対して厚く御礼を申し述べました。これだけ隠忍の伯母上にとりても(以下欠落)」

 


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最終更新日:  11/1/2