11 加藤木賞三

 

17代は通称七衛門(幼名午吉、中頃喜兵衛)という人で先代新五郎の長男として文化7年(1810)に生れ25才にして妻を大橋村五味田家より娶り六男四女をあげ、28才で家督を譲られ、両親は大岩坪に隠居分家したので多数の子どもを育てながら家業の酒造に励み33才で組頭に任命されその後父新五郎の庄屋を引き継ぎ明治維新まで約30年間よく役職をつとめ父と同様水戸藩御備人数の中に組入れられ郷士として身分格式を与えられ、勿論苗字帯刀御免麻上下着用も許された。

七衛門の弟賞三は幼名亥之吉、o叟と号した人で、文化12年(1815)に父新五郎の二男として生れ18才にして大岩坪に分家、24才で妻を全隈村の薗部家より娶り一男一女をあげたが30才の時同家に隠居として来ていた新五郎夫妻に自分の妻子をあづけて家を去り士分に列するために最初吉田神社の神官となった。後故郷の妻を離縁して江戸に出奔し国難のために東奔西走を続けていたが、36才旅先の江戸で第二の妻を相模国愛甲郡八菅村の名主熊坂家より迎え二男一女をあげ、孫根を立って11年の後ようやく水戸藩士族の列に加わることができた。それは当時にして、農民から一足跳びに士分にはなれないので神官となってその途を開いたわけで、初めは御勘定所の御勝手方という下役人となって給料は米10石5斗三人扶持という低いものであった。そののち栄進して江戸詰の「与力」に任ぜられ俸給も加増されたがそれは不明である。維新となり、廃藩置県後茨城県の官吏となって主に農政面で活躍したので藍授褒章を下賜され退官後は水戸上梅香に屋敷を構え第二夫人が死去された後第三夫人を娶り三女をあげ、常に家にあって悠々自適の生活を送り史跡の踏査や史書を著し貴重な足跡を遺してくれた人であった。

この人はまことにわれら加藤木家及び一族にとっては名実共に至宝とうたわれてもよい人物であった。若しこの人がなかったら、この際このような加藤木家の歴史は到底書けなかったし、それは永久にこの世から姿を消してしまったに相違ない。このような先賢の功績と識見があったからこそ自分たちの血の連りである歴史が永遠に光り輝くことができ、後世に伝える可能を与えてくれたのである。

その充実した生涯を築いた陰には幾多の背景がうかがわれる。その第一は加藤木に流れている血脈であり、第二には世にも優れた母の教育であり、第三には生れ故郷の家の実兄七衛門の兄弟愛と財力であった。孫根を出ての約10年間は殆んど兄の援助に待つ外はなかった筈だし、第一の夫人を離縁して二児を両親に依頼し後顧の憂もなく思う存分国事に活躍できたのも大きい陰の力であった。その他水戸上梅香の邸宅は藤田家の屋敷に近く、常に藤田氏との交流がはかれたのも彼の人間関係の上で大いに役立っていたことも見逃すことはできない。甥の東之助を東湖の門に入塾させたのもその一例であり、東湖の真筆が何点も加藤木家に遺されてあるのも、そうした関係を物語っている。娘直子を東湖の近い親族の桑原家に嫁したことは明かに加藤木家と藤田家の仲のよい間柄を説明して今に及んでいる。彼の人物像は自己の存在を外部に強く押し出してゆくことはせず、常に中間派、温健派的な存在をとり、信念は強固で桜田事変やその他の国事に参劃しながらも隠密行動を続けた人だったらしい。黒沢止幾子が京都に上ったのも、甥東之助を天狗党に送り出したのも、おそらく彼の影響が大きかったものと思われる。しかし孫根を出奔してから28年間一回も郷里の土を踏むことなく国難に没頭しその間3度の幽閉の罪をうけたがよくその志操を変えず耐え忍んでやがて老いた両親の膝下に帰ってその不孝をわびた。旅を好み特に奥州二本松、会津方面には二度も脚を運んで史跡を訪ね帰宅しては史書をしたため、家にあっては和歌を詠じ、悠揚として去来に任せ、明治26年78才で上梅香の自宅で永眠している。墓は水戸市内神応寺境内である。その子孫の中第二夫人の系列は後述するように嗣子の常男精一、健、崇 と続いている。

加藤木賞三については稿を改めて詳述することとする。

 

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最終更新日: 03/05/04