4 加藤木氏の南下と佐竹氏

 

加藤木家の先祖が福島県安達郡岩代町(長居領)から一族郎党一人も残さず、一団となって常陸国の領主佐竹氏の客将となって南下した経緯について見れば、はっきりとした年代はわからないが、略々(ほぼ)応永年間で今を去る500年前の頃と思ってよい。長く長居領の領主として栄えたわが加藤木の先祖等は畠山氏の麾下(きか)としてその命に従い領地を治め軍役に服していたが、伊達氏の勢力が愈々盛となり、東安達郡一帯も危機に瀕し各所に攻防戦が展開された。衆寡敵せず遂に伊達軍のために敗れて加藤木の一族郎党老若男女は悉く住みなれた長居領を後に逃亡、初めは阿武隈川を渡って畠山氏に倚(よ)ろうとしたが果さず、止むなく南下し磐城(いわき)郡の岩城氏の客将として一時その領内に移り住むことになった。当時岩城氏は畠山氏同様伊達氏と対立抗争を続けていたから、身を隠すため姓を改めて鹿峠氏と唱えたと伝えられている。やがて岩城氏も伊達氏の勢に押されたから遂にここにも留ることもできず、常陸の豪族佐竹氏にその援助を乞うことになった。奥州に住むこと200年間、阿武隈川中流の東部山岳地帯の長居領の領主として安住していた加藤木の一族も歴史の勢には抗しきれなくて最期を迎えた。それは天正14年(1586)二本松の城主畠山氏が伊達氏のために滅んだ以前のことであった。

常陸国に南下した道順などの史料は皆無であるが、相当の人数でもあり、騎馬隊が主力で戦士の外老若含め100名に近い一団と思われる。

奥州より敗北したわが加藤木氏が頼った常陸の佐竹氏について見ると、この佐竹氏は、今より約900年前の永保3年(1083)奥州後三年の役の際八幡太郎義家と共に京都より下って来た弟 三郎義光を始祖としている。

義光は奥州平定後は常陸介(すけ)となり、その子義業(よしなり)は佐竹郷を領し、その孫昌義になって、初めて常陸に永住することになり、これが佐竹氏の起りで、昌義の世に太田城を築き居城とし初代昌義より20代義宣(よしのぶ)が慶長5年(1600)秋田に移封されるまでの450年間天下の六大姓の一つとしてこの地に君臨していた大豪族で、しかも古くから奥州伊達氏とは仇敵の間柄でもあった。

加藤木氏が奥州岩城氏を離れ常陸の佐竹氏に倚ったことは決して故ないことではなく、佐竹13代義憲の頃と思われる。常陸に来てからの加藤木一族は初め太田城の周辺に分散して住居したが、その後佐竹氏は勢力拡張のため支族を領内の要所に配置したから、加藤木もその支族と共に分散して各々家人となった。つまりその支族は多賀、久慈は勿論のこと領内南部では、長倉、小瀬、小場、石塚、大山、藤井、粟、戸村、小野など10数ヶ所に及んだので、現在加藤木の姓の者が多賀郡より久慈郡太田、下っては長倉、野口、田谷、国井、とりわけ孫根、高久、北方、圷辺に最も多い。これは右記の理由に依るものでわが孫根の加藤木氏は主に阿波山の大山氏に高久、北方の加藤木氏は石塚氏に、田谷、国井の加藤木氏は小場氏に仕えたものと推察される。又桂村の加藤木姓はそれぞれ家紋を別にしており、八つの系列があったことは今に伝えられているが何れが本流で何れが支流かは判然としないとしても、わが孫根表組加藤木家の伝記には、往昔加藤の姓の間は、家紋は藤原姓の「下り藤」であったが、加藤木の姓に改称した折に現在の「根笹」の紋に改めたと記されている。この事について賞三翁の考え方を載せて見ることにする。

奥州の長居領加藤木郷の移川という谷川があり、その両岸の堤は「大名笹」という笹で覆われていたのでこの特異な笹をモデルとして家紋を改めたのかも知れないと彼は言っているが、一つの見識として認めてもよいであろう。

加藤木一族が南下してきた当時、孫根表組の郷には馬篭(まごめ)氏、茅根(ものね)氏など数軒の先住者がいたらしく、人口は極めて少く、耕地も狭く山林原野多くいかにも物淋しい山里であったに違いなかった。しかしわれらの先祖たちは新しい主君大山氏に仕え、北国の奥州よりは遥かに恵まれた風土に農兵となって土着し、営々開拓に精励し加藤木一族の繁栄のためにその基盤を築かれたのである。

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  最終更新日: 03/05/04