加藤木氏の土着

 

かくして加藤木氏は大山氏に仕えて高根の台地におること約数10年間、大山氏四世の孫義則の時行方郡小高城に移るまで忠勤にすごしたが、主君が移封されたため高根を去り、表組の仲丸内に永住することにした。

それは加藤木氏四代の孫主計(もんど)の時であったから、加藤木氏の始祖民部少輔が始めて長居領主となり奥州におること約270年、その子孫が伊達氏のために、かの地を追われ常陸に来てからの100年、総計370年の歴史を経て、この仲丸内に住むことになったのである。

ところで時代の転換には常に新旧勢力の交替がつきものであり、天正元年(1573)足利幕府の滅亡、続く織田氏の没落、豊臣秀吉の全国統一と目まぐるしい変遷の中で、常総の豪族達の動向も活発となったが、とりわけ注目されるのは中世以来の常陸の豪雄佐竹氏の動きであった。

佐竹家では天正14年(1586)の春、19代義重が引退し、17才の長子義宣が後を嗣いだ。この頃相模国小田原の強豪北条氏政は北関東への進出を企てて佐竹氏と対立し、一方奥州の雄伊達政宗は北条氏と謀って年来の敵である佐竹氏を南北から攻め立てようとした。佐竹氏は両軍を復背にうけ小ぜり合いが各所に展開された。このような東国の政情は天正10年(1583)以来全国の制覇を目指していた秀吉にとって重大な関心事であった。それは北条伊達の勢力は秀吉の東国進出にとっては強敵だったからで、佐竹氏は秀吉と結びこれを決定的にしたのは天正18年(1590)の小田原の役であった。秀吉は3月に小田原城包囲の態勢を整え各地の支城にも攻撃を開始したが、佐竹義宣は伊達政宗の軍と対したまま奥州白河の陣を守り続けて豊臣方の圧勝を招くことができた。後義宣は秀吉の命に従って各地に転戦功を挙げたので、その恩賞として従来の常陸七郡、下野、奥州の一部の領地など改めて佐竹氏の支配地として公認した。つまり義宣は秀吉改権下の一大名となりその勢力を益々拡張することになった。

一方水戸城主の江戸氏や石岡の名門大椽氏を初め小田、土浦、牛久、守谷の領主たちは北条方について秀吉の動員に応じなかったので新政権の下ではその存在が許されなかったのである。

かねて水戸への進出をねらっていた佐竹氏はこの期に乗じ天正18年(1590)江戸氏の弱点をつき水戸を奪いその後現在の水戸一高の地に水戸城を築き太田城より移転の宿望を果した。続いて同年石岡の大椽氏も佐竹氏に敗れ両豪族は常総の地から完全に姿を消す運命となった。この年奈良時代に創建された貴重な文化財である石岡の国分寺、国分尼寺が兵火にあって惜しくも焼失した。このような事変は新旧政権交替に伴う歴史の悲劇を今に教えてくれるかのようであって、佐竹氏は大椽氏の本家を滅したばかりでなく更に常陸南部の行方、鹿島にあったその支族33館の領主たちを翌19年2月佐竹の本拠太田の城中に招待して、酒宴の最中一挙に殺害し、従わない者には兵を差し向けて攻め滅してしまった。これも強力な豊臣政権を背景にしたからできたものであろう。

また水戸はその後慶長7年(1602)義宣が秋田に国替えとなるまで、わずか11年間であったが佐竹氏の居城として栄え同氏は水戸進出によって名実ともに常陸の大豪族となり、文録4年(1595)には秀吉の朱印状で54万5800石の領国を保証され全国で第八位の大大名となり城郭の修理拡張及び城下町の整備を行った。水戸が城下町として発達した基礎はこの時にできたものである。

佐竹氏がこの城下町の建設に相当の力を入れることができたのも、又よく秀吉の朝鮮征伐の際その重い動員と徴発にも応じて秀吉の信頼をかち得たのも佐竹氏が多年にわたる富強の力であった。これは特に佐竹氏の鉱山経営の成功による所が多かった。錫高野の奥高取鉱山などはその一つの例であり、同時代には金銀錫鉱が盛んに採掘されたので高野村の地名もこの頃より錫高野と呼ばれるようになった。

秀吉は太閤検地といって文祿3年(1594)に集中的に領土の検地を行ったがこの検地が常陸に与えた政治的、社会的影響の大きかったことは確かであって、その第一にはこの検地に依って地方の郡城の整理劃定が行われた。古代の郡界は武士の興起によって地方政治の紊乱を生じ地方の豪族が国家の定めを無視して勝手に土地を分割して私有していたのを、この太閤検地によって古の郡名に復すと共に思い切った郡域の変更を実施したことにある。

その結果、那珂川西岸の水戸地方はすべて茨城郡となり東岸は那珂郡の管轄に入ることとなり往昔常陸の政治の中心であった府中(石岡)のある茨城郡が東に移り水戸地方の郡名となり府中地方はこれより新治郡となった。

第二には地方の村が封建支配の行政単位として位置づけられ、その村城も確立されたことも重要であった。しかもこれらは農村の自然的条件を重視して行われこの検地によって定められた村落の名称が現今でも大字名や小字名として残っているのを思う時は、農村の長い将来にとって大切な役割を果したことが判るであろう。

一方農民は戦国争乱の不安から遠ざかりつつあったが、厳密な石高表示の検地により強固な領主の支配下におかれてやがて自分の土地から外へ移動することが今までのようにはできなくなり一生自分の土地を耕して領主に対し毎年きちんと年貢を納める農民百姓の身分が固定化してしまった。

また「刀狩り」の政策と相待って武士は城下に、農民は村に、工商の人は城下町に集められることになり山村の農民も、平野部や水辺の農漁民もすべて皆生れ故郷の村落で一生また代々真面目に生活することが義務づけられたのである。

いづれにしても太閤検地によって今までの長い歴史の間の荘園制に終止符が打たれ、新しい村を基礎とする大名領地の成立、新規の封建的土地所有関係の確立が見られ発達したこの封建制度下の社会が展開されることになった。

 

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最終更新日: 03/05/04