最終更新日  03/05/04

 

1 中世の奥州と加藤 氏

 

今より約720年の昔、鎌倉幕府執権、北條時頼の頃(1280)奥州(福島県)の安達地方は北條氏の地頭職安達泰盛の領地であった。

この安達泰盛は鎌倉幕府の有力な御家人であり、さらに北條氏の外戚としても権力を持っていたが、権勢の争いから遂に弘安8年(1280)北條氏に反乱を起こし泰盛は北條氏に滅んだ。

この当時東北地方は主に鎌倉幕府の直轄領が多かっただけに、北條氏の勢力の浸透はすでに偉大なものがあったが、その勢力の拡大強化は多くの御家人を次々と犠牲にして成り立っていたのである。

我等の先祖加藤民部少輔は勿論藤原氏の流れをくむ家系であったことには異論はないが、民部少輔という役職名については遠く奈良時代の大宝年間(701)に制定された大宝律令の中の役職名であって、それが世襲制となり、そのままよび名となって後世に受け継がれて来たものと思ってもよい。又この役職名は文官であり、任務は主に戸籍の作成管理とか賦役(税)の割当と実施、国有地の管理等を司っていたとあるから、加藤民部少輔という人が何代か続いていた事もわかり、奈良平安の昔に中央政府より派遣された役人の後裔か、或いはそれより後の鎌倉時代に幕府の命をうけて、この地に地頭として土着したものか、二つの考え方が生まれるわけで、この二点の何れかであろう。

さて世襲制によるこの加藤民部少輔は正応元年(1288)生れで、25才にして長居領の領主となり、その勢力は見るべきものがあったというが、次に岩代町の郷土資料館の中からの文献を載せておくのでこの地に残る物語りとして読んで貰いたい。

『弥次郎権現の由来』

「岩代町大字上長折に加藤木の地あり。鰹木(かつおぎ)とも書く。往昔宮居(城か館のこと)のありし所というも伝説確かならず。唯言う。天正の昔(1580)加藤木弥次郎兵衛と言うものあり。父祖久しくこの地にありて、戦国の世なお山中一小独立国の観をなせり。しかるに伊達政宗の当地方を畧するや、この地を以て安斉八郎左衛門に与えてその領地となさしむ。八郎左衛門依てその地を治めんとするに、弥次郎拒んで応ぜず、八郎左衛門止むなく弥次郎を欺き出して、路に射殺し、遂にその地を奪えり。その後安斉の領内に種々の変異多かりしかば、八郎左衛門大いに恐れ、弥次郎の祟りとなし、依て祠を建てて厚く祀るにその怪直ちに止みたりと。」

弥次郎権現という祠が今でも加藤木郷の山腹にひっそりと祀られている。

この資料によれば、加藤木一族が、かなりの勢力を保有し長居領を統治していたことは肯かれるが、弥次郎兵衛という人は民部少輔とは別人であることが我が家の古書で明かである。その古書には次のように記載してあるので転記しておこう。

「東安達郡加藤木村に、もと加藤木民部より分家し同姓の大宝院という修験者があって、その昔本家より多分の寺領を寄附せられ、この余徳を以て門戸をはっておったが、僧侶の身分だったので、戦国の争乱にも関係せず、加藤木一族が伊達氏に敗れて常陸に去った後も、ひとり居残っておった処、伊達家に通じていた近郷の安斉但馬という武士が、大宝院の寺領を渡すようにと難題を吹きかけて来た。そのとき大宝院は老衰に及び、嫡子何某は微弱で敵対することもできず手渡すことに応じたが、二男弥次郎はこれをこばみ反抗したので安斉のために殺害されてしまい、寺領はことごとく奪われ大宝院父子は追放の身となり、先に伊達氏のために加藤木の地を去った民部の跡を追って岩城地方(福島県東部)に逃れて行った。この大宝院が当地に居た時の寺の本尊は行基菩薩の作で、千手観音の像であり加藤木郷に遺しておいたのが今日の安産のお守りとして信仰する者が多いという。」

以上二つの史料の内容は奥州における加藤木氏の栄枯盛衰の姿を単的に述べたものであって、次にこれについて順を追い乍ら詳述して見たいと思う。

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