7 佐竹氏の秋田移封と加藤 木氏

 

秀吉の政権下一応安定を見た常陸の政治勢力も、慶長3年(1598)秀吉の死によって大きく変化し、文吏派の石田三成と武将派の中心人物徳川家康の対立激化を招きその間にあって全国的にも大きな力をもった佐竹氏の存在にも影響を及して中立関係は許されなかった。

慶長5年(1600)6月それは関ヶ原合戦の三ヶ月前のことであった。徳川家康はかねてから石田三成と気脈を通じていた会津120万石の大名上杉景勝を打つため下野の小山に本陣を構えその子秀忠は宇都宮に陣した時、奥州諸大名の中で伊達政宗、最上義光の二人はこれに参陣したが、常陸の佐竹氏は一応の協力体制はとり棚倉辺まで出陣したもののその後の行動は積極性を欠き遂に動こうとはしなかった。これは佐竹義宣にとっては秀吉の時代石田三成にかなりの恩義をうけており、更に上杉氏においては父義重時代からの盟友でもあったからで、この石田、上杉両氏に対する義理もあった。しかし当時の実力者家康の誘いを全然うけ附けない訳にもゆかなかった。このように二者の間にあって、あいまいな態度を執った佐竹氏は徳川方からも、石田、上杉方からも不信を招く結果となった。一方石田方では七月下旬には毛利輝元等数名の大名が連合して家康攻撃の方針を明らかにし、家康不在の伏見城を攻略したので、家康は急ぎ小山の陣を引き払い江戸に戻り、戦力を整えて関ヶ原を指して西上したのである。

このような情勢下で佐竹氏のとった行動は微妙であったらしく、会津征伐のため出陣していた義宣宛に石田方から密書が届き重臣等の間で、石田か徳川かとその向背についての議論は相半ばして遂に結着がつかず、結局上杉氏との密約を固めながらも、表面は徳川方とも断絶することなくし、又石田方にも心を寄せる姿勢をとり、八月には棚倉の陣を引き上げてあっさり常陸太田に帰って来てしまった。このような佐竹氏の生ぬるい態度の中に9月15日の関ヶ原合戦は東軍徳川方の完全なる勝利に終り、とうとうこの天下分け目の合戦にどちらにも組することなく、あっけない幕切れとなったのである。

かつては新勢力秀吉に味方し有利な地位を逸早くかち取った機を見るに敏なる義宣が10年後には会津と江戸の間にあって新しい時代に進出する機会を完全にとり逃してしまった。水戸城の佐竹氏にとって徳川方の出方を憂慮する重苦しい空気が暫くの間続いた。義重、義宣父子の家康に対する態度は恭順そのものであり戦後直ちに義重が隠居の身を顧みず、わざわざ伏見まで出向いて家康に謁したのも常陸に長い伝統を誇る佐竹氏の無事を祈る気持だったに違いない。慶長5年、6年は何の異常もなくて暮れたが同7年(1602)5月伏見の家康のもとに出向いていた義宣に突如秋田への国替えが命ぜられた。それは明らかに一種の処罰であり領地高も20万石と大きく減封され佐竹氏にとっては極めて冷酷な命令であったという外はない。どうしてこのような厳しい処罰が実施されたのか疑問とされ今だに定説はないが、かねてから佐竹氏に不信感を持っていた家康がこの国替えの直前に上杉、佐竹両氏の間の密約の証拠を入手したのではないかという推定が真実に近く感じられる。

義宣は家康の命に従い僅かの部下と共に故郷の水戸城に立寄ることも禁ぜられ9月中旬秋田に赴き、父義重も太田城を引き払って義宣より先に陸路秋田に着いた。450年もの長い間土着して常総だけに畄まらず天下に重きをなした大豪族の佐竹氏が突如秋田へ移封となると父祖伝来の土地をもって仕えた多くの家臣の処置が一番の問題だった。義宣に供をした者はわずかに93騎のみ、水戸の重臣らは父義重らと共に家族を連れて下向したが一般の家来は厳しい制限をうけたので、その去就は様々であり、兄は秋田へ弟は親と共に残って土着すると思へば、弟は秋田へ兄はこの地にといった例が多くて、この国替えは佐竹の領内のあちこちで一家離散の悲話を数多く残している。

今でも秋田地方にはこの地に多い苗字が150近くも認められるのは、その昔同族だった者の子孫であろう。郷土に土着せざるを得なかった武士は徳川時代になって、水戸藩に出仕した者も少しはあったが、多くは旧家の誇りを捨てず村役人となって村落の中心的な役割を果した。

わが加藤木氏の場合も常陸に移住してより100年間恩顧を受けた主君佐竹氏が突然秋田移封となり、きびしい制限をうけたので、加藤木彈正は嫡男主計(もんど)(通称七衛門)をこの地に留め、次男義仁(よしひさ)(通称長右衛門)を秋田に送ったと記録に残っている。

後年賞三翁の調査によると秋田佐竹藩に今尚残っている古文書中「在給人帳」のあることを知り、直接その古書を閲覧した際明らかに加藤木の姓を名乗る者が2名あって、その一人が嘉藤木長右衛門義仁、禄高131石とあって、これがわが先祖の一人であると確認している。秋田に行ってからは「加藤木」を「嘉藤木」と唱えたらしいと附記してあって歴史の事実が相違なく立証される。

尚加藤木家の歴史を証拠立てるものとして2、3の例を挙げれば、その一つは古来より本家に伝わり残っているものの中に、加藤姓であった頃の紋所で青地に白の「下り藤」を染め抜いた袱紗(ふくさ)という絹地の祝い事などに使われる布と、その二は奥州二本松辺にいた頃入手したと思われる奥州住人兼定(関の孫六2代)の銘で、三本杉の刃紋が美しい刀剣一振が伝わっている。佐竹氏の家臣で武士階級だったであろう加藤木氏もその後農兵として徳川氏に仕え、その政策に依って家系図も没収され野口の神社「佐伯(さへき)の宮」に納めたとの記録も残っている。もしこの系図が現在どこかにあるとすれば、おそらくその中には、往古藤原氏から発し奥州長居領主の加藤木民部少輔に始まり、常陸の佐竹氏に仕えたまでの数代の先祖が記載されている筈であるが、今やそれを知る由もなく誠に残念である。

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最終更新日: 03/05/04