10 加藤木氏14〜16代の事蹟

 

14代加藤木半治衛門

14代は通称半治衛門といって、父の遺志をつぎよく家風を守り庄屋の役を勤め、妻を北方飯村氏より娶り二人の男子をもうけた。

半治衛門は体質虚弱で50才頃からは中風気味で酒造の方は妻と雇人にまかせて自分の療養につとめ、

安永の頃(1780)西隣の伴衛門宅より火を発し吉郎平宅に類焼、西風強く本家が風下になった時、多数の村人達が手伝いに来て酒倉の草屋根にあわや焼え移ろうとしたところ、さかんに竹を伐り出し防いでくれているうち急に風向きが変り前の利平の家に飛火し3戸数棟の大火となってしまった。

半治衛門の妻の働きぶりは大したものであったと伝えられている。この大火は旧暦12月28日の夜更けであったという。その一日前のこと観世音に住む者が酒倉の売場(ひろしき)で酒を飲んでいるうちに夜ふけとなり鷹の巣の山道伝いに帰宅しようとしたところ、稲荷神社のまわりに数10匹の狐の群れの中に一きわ大きい一匹の白狐を見て恐しくなり、山道をひき返し桐内の方に抜けて帰ったとのこと、又そのころ3、4晩つづけて狐の鳴き声が裏山にしきりと聞えて来たことを思い合せ、これは稲荷氏神のお告げと信じ霊験あらたかな稲荷社を再建してねんごろに祀ることにした。たまたま半治衛門が伊勢参拝の帰途伏見稲荷に立ちより、正一位稲荷大明神の官位を受け、それを箱に納め絹の布で包み新しく建造した本殿に奉納した。

この稲荷社は約170年前のもので損傷もはげしいので昭和49年3月上棟、同6月に完成した現在のものは20代直の建立による。昔奥州長居領に定住していた加藤木郷に今なお村の人たちによって稲荷明神が祀られていることは決して不思議ではない。それは加藤木の氏神は昔から稲荷の神であるからである。

さて半治衛門に男子二人があり、いづれも大切に育成され学問は勿論歌舞音曲の類まで習熟して他の羨望の的であったが悪運が巡り来て長男の金治は22才で他界してしまった。そこで次男萬之允を相続人にしようとして北方飯村氏から母の姪に当る女を娶ったが、この萬之允も兄と同様22才の若さで両親と妻を残しこの世を去ってしまった。病気はおそらく喘息だったと思われる。この事件は半治衛門夫妻にとっては最大の悲惨事であったが加藤木の本家の系譜から見てまことに重大問題だった。つまり男系の後継ぎがここで中断されたことである。

酒造りの商法で莫大な財産を築き、経済的に見て何不自由もなかったけれども苛酷な運命は襲いかかって、二人の息子を次々と死に到らしめてしまった悲しみは、しばらくは半治衛門夫妻を茫然自失の姿にしていたが、やがて次のように相続人を立てることにしたのだった。

北方飯村氏は古くから婚姻関係を結んできた家であって、半治衛門の妻も飯村氏の出であり、次男萬之允の妻も同氏より来ていたから、この若い後家の女をそのまま畄めておき高根村の小林氏より伴三郎を婿養子に迎えて相続人と定めることにした。しかし半治衛門夫妻にしては、嫁は妻から見ると血縁の姪であるが夫からすれば縁の浅いものであって、夫の老後を考慮し、先に桐内に分家した幸重の長女ゆう子を養女に入れ、この者に同じ高根村の小林同族から吉平というのを婿養子とし、本家の東隣りに分家させ将来に備えた。

この半治衛門は前述した通り生まれ付き強健な体質でなく、家業にも余り精出すこともできなかったが庄屋役を仰せつかっていて、富力と権力を兼ねて豪奢な隠居を新築したり、その頃容易でなかった伊勢や京都その他諸方面に旅をしたり稲荷氏神の祠(ほこら)を新築し、毎年かかさず湯治にゆき中年頃まで恵まれた生活を送ったが晩年は実の子の悲運にあい続いて妻に先立たれてさびしい暮らしだった。後妻を水戸上金町の小林という家から迎え隠居の家に棲んでいたがわづか3年で亡くなってしまった。

後妻は夫に死なれひとり隠居家にいて何不自由なく暮していたが水戸の実家に残してきた娘恋しさに、夫の歿後1年で戻って行ってしまい貧困の中で死んだという。その死を知った婿の伴三郎は東隣りの分家吉平と二人で水戸に赴き、孫根庄屋の格式をもって葬儀一切を取り行い篤く神崎寺に葬ったという。

 

15代加藤木伴治衛門

15代は通称伴治衛門(前の通称伴三郎)で、高根の小林氏より婿に来た人である。この小林氏はそれまで加藤木氏とは無縁であったが先祖は伊豆国の小林庄(領)から来た子孫であり伊豆から三嶋明神を高根の三嶋山に遷(うつ)してきた家柄で、佐竹義舜の頃(1500)この地に移り大山氏に仕えて、かなりの名門であったから本家の相続人に選ばれ婿になったといわれている。

伴治衛門の妻は先に飯村氏から嫁に来ていたさよ女といい、夫妻相和して家運の挽回につとめ、養父亡き後は庄屋役も継ぎ、家業の酒造を続け二男二女をもうけて一時は盛運が訪れたかに見えたが、突如37才の若い妻の急死に見舞われて再び悲運に落ち込んでしまった。時に長男の新五郎は17才、弟の甚作は8才、妹の花子は4才だった。(二人の女児は若死している)。

そこで伴治衛門は一日も早く長男新五郎に嫁を娶ろうと図り新五郎18才にして妻を那珂郡野口平村諸沢佐市衛門の長女勝子を迎え5年目に孫の長女初子を、その後4年過ぎて文化7年(1810)に孫の午吉(後の七衛門)をもうけ、二男の甚作を12才で外祖父飯村家に養子にやり外祖父母のもとで養育されたので、伴治衛門はわが家と北方飯村家の両家をかけ持ちして世話をし、年寄りの外祖父母が亡くなり続いて妻にも死なれてからは、長男新五郎に家督を譲り自分は次男甚作のいる飯村家に居を移して後妻を那珂郡上岩瀬から娶り三人睦まじく暮らしていたが孫根加藤木の男子の孫七衛門の誕生を見て大層よろこび、同年8月56才で急死してしまった。上岩瀬から来た後妻はよくその後を守り養子の甚作に嫁を娶り長い間同居していたが天保の頃家で老衰死している。

伴治衛門は行年56才文化7年歿、法名は「大?了道清信士」。妻は行年37才享和2年歿、法名は「夏雲妙蓮清信女」で両人共小谷戸墓地に埋葬された。

 

16代加藤木新五郎

16代は通称新五郎(正頼、幼名午吉)といい17才にして母を失い弟妹も幼かったので父のすすめによって翌年18才で、前述の通りの嫁を迎え二男一女をもうけ、父伴治衛門が56才で亡くなられた時は、新五郎25才の若さであった。父の跡を継いだ後は初め組頭、続いて庄屋となり組頭、庄屋あわせて、49年の間永年勤続を敢行、その間天保7、8年の凶作の折には孫根及び隣村1五ケ村の貧窮者170名の者に籾100俵その他大麦、稗、味噌にいたるまで与え救済したことは特筆しておかねばならない功績である。このような大量の食糧を保有していたことは想像しかねることであるが、常に勤倹貯蓄に心がけ3つの板倉にはいつでも一杯の米麦があったからこのような思い切った人命救助が可能であったのであろう。

水戸藩では特にこの行いを賞揚し、永代苗字帯刀を許され総庄屋(御山横目)に格上げ、身分は藩の備御人数(郷士)に組入れとなった。天保9年(1838)長男七衛門に家督を譲ったが、なお庄屋の役は続け、次男賞三の分家の大岩に隠居しここにいること22年間、安政6年(1859)行年74才同家で歿す。法名「徳翁善心清信士」。葬儀は本家七衛門宅でとり行い小谷戸の墓地に埋葬された。

妻勝子(後利遠、利与)は前述の通り、野口平村諸沢佐市衛門、母下小瀬村高倉婦人の長女として生れ満14才で新五郎に嫁し二男一女をもうけた婦人で体躯に恵まれ男まさりの気力もあり、よく夫新五郎を助け後の世まで孫根の「女庄屋」と呼ばれた程の人であった。

天保年間水戸藩の廃寺問題が起きていた頃夫新五郎は故もなく菩提寺の孫根浄堅寺の僧侶のために片腕を切り落され身に十数ヶ所の傷をうけて、まさに死ぬ一歩の処をさまよっていた際には、必死になって夫の看護は勿論神仏を念じ、夜間は後難を恐れて単身仕込杖をかくし持って家の周囲を見廻って、それに備えたといわれている。

生まれつき気性は強かったが温情豊かで養父伴治衛門も大いに気に入り、早く身代を渡そうとしたが固辞して受け入れなかったので、養父が死ぬ前まで養父は孫根と北方の飯村氏の両家を見廻っていた位であった。なお28才の夏土用の頃流産後の病にたおれた際は絶食数10日に及んだので、近隣の医者は殆んど絶望を宣告したがかの女は稲荷氏神に祈願し続けて遂に一命をとり止めたから、終身信仰心強く、固い信念を有することになったと思われる。

安政の大獄が起き水戸藩主斉昭が蟄居を命ぜられた時には、独り村の鎮守、今宮神社に夜篭りして無罪になることを幾夜も祈り続けさらに水戸桂岸寺(二三夜尊)にゆき21日間の断食の祈願を実行し、それでも思うように斉昭のえん罪がとけないので、遂に55才の弘化2年(1845)従者二人をつれ、ようやく江戸に潜入して紀州公に嘆願書を届けることができやっとその目的を達することができた。夫新五郎を家に残しながらのこの行動は異様に感じられるがその主なる理由は夫が片腕をなくした不具者でありその当時体の傷も完全でなかったと考えられる。

斉昭は間もなく許され、安政6年(1859)利与女の殊勝の行為を賞し、褒状に添え鏡一面を賜わり今なお大岩の孝紀宅に保存されている。この鏡の裏面には斉昭の真筆で、後醍醐天皇御製の次の短歌が刻まれてある。

九重(ここのえ)に今もますみの鏡こそ

                     なお世を照らすひかりなりけれ


幕末の三女傑の一人黒沢止幾子は、この利与女の薫陶を大いにうけており、利与女を常に「母上さま」と呼んでいた。同時代止幾子が同じ目的のため単身京都に赴き怪しまれて捕虜の身となって江戸に護送され、やがて追放罪で牢を出て最初に訪れたのが小石川屋敷の加藤木家(賞三)であって、ここで待っていた利与女に会い二人は抱き合ってその無事をよろこびあったという。利与女は止幾子の労をねぎらって自分の羽織一枚を贈ったが、この羽織は今でも黒沢家に遺されてある。止幾子はその後実家錫高野に戻り、加藤木家を訪れて例の鏡を見て感激の余り次の短歌を詠んでいる。

烈公より給わりし御鏡を拝し奉りて後によみてまいらせる

君か代にたてしみさをの増鏡

                   その行すえも照りまさるらむ

                                      止幾子

夫新五郎におくれること13年、明治4年正月7日の夜何事もなく夕食をとり床に入り間もなく頓死して外の者に迷惑は一切かけなかった。これは日頃からこのような死を遂げたいとの願望を神仏に祈っていたから実現できたと人々語り合ったという。行年82才

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