最終更新日: 11/01/11  

 

「加藤木 常男」

 

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「加藤木常男」                                  「ゆう」

加藤木常男は明治12年(1879) 1月5日、父加藤木甕、母ふき との間に、当時の父の赴任地長崎で生まれた。母 ふきは雨宮中平の長女として文久3年(1863)2月5日、静岡県高田郡金谷村に生れた。 甕とふき は明治8年(1875)11月10日に甕の上海赴任を前に結婚、ふき 12歳という若い嫁であった。甕夫妻は明治10年に上海赴任を終え、長崎郵便局長として帰国、ここで常男が生まれた。 明治15年(1882)常男の祖父賞三が水戸で病床に臥すと、甕はあっさり職を退いて身重の妻ふきと3歳の常男を連れ水戸に帰った。 明治16年(1883)4月18日に妹梅子(後に平川正寿氏に嫁す)が誕生。父甕はその後行方郡、久慈郡と郡書記を勤め住まいは転々としたが、明治25年(1892)に東茨城郡書記に就任し一家は再度水戸へ帰った。 常男13歳の年であった。 父甕は厳格かつ多忙で、晩の食事も家族全員一緒に食することも少なく、常男は幼少時、寂しい思いをしたという。 明治31年(1898)10月 6日、弟正三が誕生。 明治34年(1901)5月には家族一同キリスト教信仰を奉じた。 時に常男22歳。 しかし、常男の子精一によれば、常男自身は熱心なキリスト者ではなかったようである。

19歳の常男 (明治30年(1897)2月24日写 於松本信夫方)

年次は不詳であるが、常男は群馬県桐生市の高等工業学校を卒業、逓信省官吏養成学校(現在の電気通信大学)で電気技術を学んだ後、技術者として逓信省に入省し、当初は各地の郵便局長を歴任して回った。

明治39年(1906)3月26日、常男は27歳で佐藤ゆう(当時18歳)と婚姻。 ゆう は、明治21年(1888)6月24日に群馬県前橋市曲輪町108番地で前橋の旧家である佐藤小三郎の2女として生まれ、母 まつ に茶道華道等の道を躾られて育った。 ゆう の母方は前橋で代々続いた裕福な商家であり 余裕もあったためか ゆう は姉 たき とともに 当時全国で熱狂的に流行していた娘義太夫を嗜み 舞台にも立って 美人姉妹として地方で評判を集めていた。 一般には年下の妹が太夫(語る人)を 姉が三味線をという場合が多かったことから ゆう は太夫であったと考えられるが、常男は ゆう の舞台姿を見初め 両親に頼み込んで嫁に迎えたという (常男の子 露子談)。

娘義太夫は明治10年(1877)頃から徐々に流行の兆しを見せ始めたが ゆうの生まれた明治21年(1888)には 初代竹本綾之助(当時14歳)が東京新柳亭にて真打看板をあげ たちまち帝都の人気を一身に集め 以後10年間空前絶後の人気を保つようになった。明治23年(1890)に 住之助が看板をあげたころからは 「どうする連」「追駈連」とよばれた「追っかけ」が 学生を中心に目立ち始め 豊竹呂昇 昇菊・昇之助 竹本小土佐(後年紫綬褒章受章) 竹本小清 竹本京子 などスターが輩出した。 明治中期には 寄席に出る娘義太夫は青年の心をトロトロに蕩かしたといわれる。 当時 帝都では 明治・慶応・早稲田の学生がそれぞれ贔屓のスターを追っかけ社会問題ともなるほどであった。 まだ若くナイーブな 志賀直哉 竹久夢二 木下杢太郎 高浜虚子 夏目漱石 北原白秋 樋口一葉 らも女義席に通い、作品にも残している。このブームは 東京に200以上あった寄席が20年後の関東大震災で壊滅して下火になるまで続くことになる。(水野悠子著 「知られざる芸能史 娘義太夫」 中公新書1412)

ゆう は常男と結婚後も祖父賞三の後妻 もと に小太刀、長刀、小笠原流礼儀作法一切を教え込まれた。 実際 もと は ゆう を目の中に入れても痛くないほど可愛がったといい、素養があるとは云え町民出身の ゆう に、士分の出自である もと はすべてを伝授し、加藤木の家に相応しい嫁を育てようとした。 また ゆう もこれに良く応えた。

常男 と ゆう (明治39−40年(1906−07)ごろ 撮影)

結婚4年目の明治43年(1910)6月23日に父甕が孫の顔を見ずに没(享年59歳)。 翌明治44年(1911) 3月17日に当時常男が郵便局長として赴任していた東京市本郷区湯島天神町2丁目33番地で長女好江誕生。 このとき常男33歳の第一子であった。 当時 天神さまの女坂を降りきったところ左側の街角(不忍池から五軒町へ通ずる道と天神女坂の交差点)には 有名な鳥屋があった。 この年 幸徳秋水の大逆事件の最後の処刑(管野すが子)が行われたが、 その管野は女坂を登りきった左側の家に住んでいた。 また 日本橋が竣工し 4月1日に渡り初め式が行われた。 常男は月島の安生家に赴くために4月3日にこれを初めて渡った。 4月8日には吉原大火があり 天神さんの境内からよく見えたという。

ゆう と 前橋の佐藤一家 (大正2年(1913)12月撮影)

左から ゆう 母まつ 姉たき 長女好江 父小三郎

大正3年(1914)4月 2日祖母もと(加藤木賞三の妻)が水戸において亡くなった(享年78歳)。 この年常男は同じ東京市内の京橋区月島仲通り9丁目9番地にあった安生家に寄留していたが、同地において大正3年(1914)8月17日、長男精一が誕生した。 精一誕生の6日後には日本がドイツに宣戦布告をし、第一次世界大戦に参戦するという騒然とした時代の只中であり、精一を産んだばかりの妻ゆうは、当時35歳の働き盛りであった常男がいつ徴兵に取られるか、と大変心配したという。 下の写真は精一生後50日のものであるが 好江の持っているパラソル、頭の髪飾りは ゆうの母のまつが贈ったもので、髪飾りは上野広小路の博品館で求めたものであった。

 

生後50日の精一 と 姉 好江 (大正3年(1914)10月5日撮影)

常男に召集令状が来たのは 大正4年(1915)の夏休みであった。 当時は常男一家は水戸に居住していたため 常男は宇都宮の野砲兵第20連隊に入営した。

軍服姿の常男 (大正4年(1915)9月26日撮影)

 

常男が入営していた期間は不詳であるが 比較的短期間であったようで 退営後も郵便局長として各地を転々とし、大正6年(1917)2月21日には 東京府豊多摩郡淀橋町大字柏木72番地で二女露子を、さらに大正9年(1920)7月15日には奈良県宇智郡五條町大字須恵16番地1(現五條市)で次男博をもうけた。

妻ゆう についてのエピソードとして大阪で露子を妊娠中、雨の日に町を歩いている時掏りにあったが、とっさに掏りの手を雨傘で叩いて撃退したという。これをたまたま目撃した近所の店主が「さすが加藤木さんの奥さん」と感心したと伝えられている。しかし、ゆう の母 まつ は、故郷を遠く離れて出産することとなった ゆう を心配し、前橋からはるばる大阪まで来て娘の出産を手伝った。この為か、好江、精一姉弟はよく まつ になつき、後々まで前橋の祖父母と言って慕った。

常男が故郷の水戸を離れているあいだ、水戸市梅香の家には母 ふき が娘の梅子(平川正寿と結婚)一家と暮らしていたが、常男は大正8年(1919)長男精一を、また大正11年(1922)には次女の露子を、それぞれ小学校へ入れるため故郷の水戸へ帰した。精一が水戸へと移ったときには祖母 まつ は態々五條まで精一を迎えに来て、精一の手を引いて水戸まで送り届けた。常男一家には、さらに大正12年(1923)2月10日、勤務先の岡山県岡山市下石井20番地にて三女幸子誕生、計5人の子供をもうけた。

こうして暫くの間、常男、ゆう夫妻と長女好江、次男博、三女幸子の5人は岡山およびその後島根県の浜田に、また長男の精一と次女の露子は水戸の実家に、とそれぞれ別れて暮らすことになった。この間常男夫妻は、水戸に暮らしている精一と露子の二人の子供の身を思い、二人に毎月必ず小学館の月刊誌と少しの菓子を送ったという。

大正12年(1923)4月、常男の転勤で一家は全員故郷の水戸へと戻り、同時に平川一家は東京に普蓮土学園(現在の東洋英和)の校長として越して行き、ひさびさに一家7名揃っての暮らしを営むこととなった。

常男と子供たち(大正12年(1923)撮影)

左から 露子 博 精一 佐藤小三郎 好江 幸子 常男

同年9月1日の関東大震災を一家は水戸において迎えることになるが、幸い特に被害も無く済んだ。常男は水戸の逓信省においては、近郊の大子(現茨城県久慈郡大子町)の電話網敷設に関して設計、施工の指導統括を行うなど、大いに成果をあげた。

常男は技術者らしく几帳面かつ物静かで、音楽を好み、自身ハモニカ、オルガン、ヴァイオリンなどを演奏して楽しんでいた。また長女の好江をよく可愛がり、手書き で "Japanese songs" という小冊子を作成し日本の歌曲を何曲も1-7の数字でハモニカ譜に示し、好江に与えたり、また好江に筝を習わせ自らも合奏したりして楽しんでいたという。好江はこの常男手書きの譜面をその最期まで大切に保存していた。また常男は子供達に自分をパッパ、妻をマンマとよばせ、当時としては進歩的な家庭を築いていた。

昭和2年(1927)には常男はすっかり旧くなった母屋を新築した。ところが当時家に出入りしていた名古屋の煙管屋が「お目出度いときにこう申し上げるのもなんですが、このお屋敷からは旦那さんの葬式はでますが、ほかの方のお葬式は残念ながらでませんねぇ」と言ったのである。これは後にこの屋敷が水戸大空襲で全焼するという形で現実となった。

昭和6年(1931)長女好江は常陸太田出身の大久保稔と結婚した (婚姻届は昭和11年(1936)8月7日とある)。 稔は早稲田大学政経学部を卒業し、大倉土木(現大成建設)に勤務していたので、好江は結婚して直ちに稔の当時の赴任地福岡に引越して行った。 ところが稔は、当地で気胸により肋骨を2本切除するほどの手術をすることとなり、会社もこれを考慮して稔を東京本社へ戻してくれたため、その後大久保一家は暫く東京で暮らしていた。

常男は昭和9年(1934)、55歳で逓信省定年となるが、その後も引き続き2−3年の間、家族を水戸に置いて逓信省和歌山に勤務した。 しかし年を経てからの単身赴任はさみしく、暫く後水戸の家族の許へ戻り水戸市役所に勤務し、水戸市内の上水道網の設計、施工の指導統括を行った。 ところが60歳前後から耳がとおくなり、議会での質疑にも支障がでるようになった為、水戸市上水道の完成を待って退職し、その後は悠悠自適の生活を送った。(常男自身は引退は不本意であったが、市議会議長が妻ゆうの許を訪れ、退職を説得するようにと懇願し、これを受けてゆうも常男を説得した結果、ようやく退職に同意したという。)

その間、昭和10年(1935)には、大学を浪人した長男精一を、東京市神田区五軒町に住んでいた従兄弟の松浦武彦、三郎兄弟(常男の叔父一雄は、松浦武四郎に養子に入り、松浦姓を継ぎ、武四郎共々神田五軒町に居を構えていた。武四郎は既に明治21年(1888)に71歳で亡くなっており、一雄も亡かったが、常男は従兄弟にあたる一雄の子供達とは親交を続けていたと思われる)のもとに預け、また昭和14年(1939) 8月18日には次女露子を久慈郡依立村大字上金澤1969番地の医師星重治に嫁がせた。 またこの頃、常男の母 ふき は、常男の弟で ふき の実家雨宮家を養子として継いだ雨宮正平氏にひきとられ、東京へと越していった。

昭和13年(1938)には次男の博が群馬県桐生市の高等工業学校へ入学し、附属の啓眞寮中寮で寮生活を開始した。 常男は、長男の精一が大学浪人中ということもあり、博に「3年間は水戸の外で勉強できるようにしてはやれるが、資力の問題でそれ以上は無理だ」と告げたため、博は兄と同じ水高への進学を忌避して、水戸から一日も早く出ることを選択した結果、桐生での下宿生活を選んだのである。 この為、水戸の家には男児が不在となり、常男夫妻は再び静か だがさびしい生活へと戻ることになった。

結局、長男精一は京都帝国大学に入学、昭和15年(1940)に大学を卒業し、故郷の日立製作所に就職して茨城県多賀郡の多賀工場に勤務したが、それも束の間、翌昭和16年(1941)3月には軍に召集され、昭和18年(1943)5月には陸軍主計中尉として、すでに敗色の濃かった東部ニューギニアへと出征させられてしまった(この間の詳細は加藤木精一の項に詳述)。

次男の博は昭和16年(1941)桐生高等工業学校を卒業後、9月まで桐生市(桐生市西堤町300番地商工寮別寮内)に、次いで高崎市(高崎市下和田町宗眞寺桐生商工会寮)に留まっていたが、まもなく徴兵され、東茨城郡長岡村の東部第103部隊松本隊に入隊した。 優秀な博は直ちに頭角をあらわし、選抜されて茨城県東茨城郡吉田村の陸軍航空通信学校竹内隊にて学ぶことを命ぜられたが、これも1、2番という優秀な成績で卒業し、このため静岡県の陸軍航空通信学校に教官として採用され勤務するに至った。 博は柔道、剣道、水泳に秀で、かつ頭脳優秀な文武両道に長けた人物であったため、本来であれば当然前線へと徴用される筈であったが、幸い教官となったため、精一とは異なり戦地への出征は免れた。このとき博はまず静岡県磐田郡磐田町見附2805梅葉庄八方に、後に同磐田郡大藤村大久保 森島茂方に寄宿し、これを縁として戦後静岡県に森島さだ子と家庭を設け、その一生を静岡で過ごすこととなる。

次女露子の夫星重治は医師であったので千葉県の高射砲部隊の軍医として配属され、これも前線への出征はなんとか免れた。

長女好江の夫大久保稔は戦争が始まり、家族を水戸の加藤木家のもとに疎開させ、自身は大倉土木の東京の東芝の工事現場で勤務していた。 やがて稔にも徴兵令がでて、一旦宇都宮歩兵連隊に徴兵されたが、ゆう は奔走し、一旦入隊していた稔を既に完治していたにも拘らず結核を理由に除隊させてしまった。 終戦直前、同社に仙台支店が設立され、これとともに稔に転勤命令がでたので、稔は水戸に疎開していた家族を連れて仙台に赴任した。

精一は翌昭和19年(1944)8月に南方戦線にて玉砕命令を受け陸軍主計大尉に一階級特進するが、常男は精一をはじめ子供達の行く末を案じながら昭和19年(1944)10月24日 午後5時40分、大戦のさなかに精一の帰還を見ずに逝去した。 戦時下の不自由な中での老衰による大往生であった。 享年66歳、水戸市の神応寺に葬られた。 戒名 常信院精阿覺道居士。

残された ゆう は水戸市梅香の屋敷の半分に建てられていた長屋からの賃貸収入で梅香の家を守っていたが、常男の死後1年も経ずして、昭和20年(1945)7月の水戸大空襲で家屋敷をすっかり焼失してしまった。 水戸の屋敷は梅香261番地であったが、「梅香の一番屋敷」といわれ、藤田東湖の屋敷を筆頭に、屋敷の総数は当時12ほどあった (他に 前田、関、津田、吉田、菊池様など)が このときの空襲ですべて焼失してしまった。 このとき ゆう は位牌ひとつを持ったのみの着の身着のままで空襲から逃れなければならなかった。 焼けた邸内の蔵に あった 常男の祖父賞三の残した多くの文書、松浦武四郎から譲り受けたアイヌの硝子壜・木版刷の冊子、藤田東湖の借金の証文などは 悉く灰になってしまった。 水戸の大空襲により これらの多くの貴重な資料を焼失したことは誠に残念である。 家を失ったゆう は一家をひきいて 東茨城郡岩船村へと疎開した。 男手もなく 家族を守るために ゆう は毎夜 枕元に日本刀をおいて就寝したという。

同年8月15日の終戦を経、長男精一は翌昭和21年(1946)1月に無事帰還、横須賀で残務整理を済ませた後、ゆう の疎開先へと戻ってきた。ゆう は大変喜んだが精一は公職追放の身であったので、水戸で教職につかせたいという ゆう の願いはかなわず、同年7月長女好江の夫大久保稔のつてで大成建設(旧大倉土木)に就職させた。ところが、2ヶ月後の同年9月に精一に同社仙台支店への転勤命令が発令されたため、ゆう は精一の仙台赴任の前に精一に身を固めさせるべく急遽、笠間藩士の青木家の友江と結婚させた。このとき 水戸市梅香の屋敷には借家の人々が既に焼け跡に仮屋を建てて住みついていたうえ、不在地主として田は二束三文で取り上げられ、かつ昭和21年(1946)施行の羅災都市借地借家臨時処理法によって水戸の屋敷も思うに任せぬようになり、一族相談の上 水戸の家屋敷を処分し、得られたわずかの金を子供達に分配して、精一、友江および三女の幸子と共に仙台へと赴いた。

仙台では当初は大久保稔宅に精一夫妻ともども居候としていたが、同年11月頃、精一が市内成田町に家を見つけここに転居した。 ゆう は時折買出しに出たりしていたが、このとき胸部を強く打ったことから、呼吸器系統に疾患を持ち寝込むようになった。当時仙台は寒く、朝枕もとの吸呑みの水が凍るほどの寒さの中、家屋敷を失うなど戦中戦後のいろいろな苦労が重なり、翌昭和22年1月に肺炎に臥し、内孫の誕生を待たず同年2月6日に没した。 亡くなる際に ゆうは 嫁の友江に 「戦争で加藤木家はなにもかもすっかり無くしてしまった。 ご先祖様に申し訳けない。 精一を支え なんとか加藤木家を再興してくれ」 と言い残して息をひきとった。 享年60歳であった。 戒名 慈信院至式妙祐大姉。

なお雨宮家にひきとられた常男の母 ふき は90歳を超えて長生きし、戦後の昭和25年(1950)ごろ東京で亡くなった。

また、常男の遺した 住所録 より、主な人名を抜粋したので参照いただきたい。

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