8 徳川氏水戸に入る

佐竹氏の水戸進出で常陸地方に新しい時代が生れたかと思ったのも束の間、わずか11年間の佐竹の水戸在城も秋田への国替えで慌しく終ってしまった。

余りにも突然で非情な措置に憤った佐竹の旧臣の中には車丹波斯忠、大窪兵蔵久光、馬場和泉政道のように徳川方によって占有された水戸城を奪回しようとする陰謀もあったが成功せず総ては徳川方の新政権のもとに新しい大名配置が行われその政治情勢は一変した。

つまり徳川新政権下で最大の藩は御三家の一つ水戸藩である。その成立は家康の11男頼房が慶長14年(1609)わづか7才で下妻10万石から水戸25万石となった時からであり、その後28万石となったが水戸が公称35万石となったのは三代藩主綱篠(つなえだ)の時である。

御三家としての格式が定まったのはそれより後のことで定(じょう)府制といって常に藩主は江戸にいて参勤交代の義務も除外されたのは、格式及び領地の大きい尾州紀州両家との均衡を保たせる政策の一つであったという。

佐竹の旧領民に対しての水戸藩のとった封建制策は枚挙するにいとまがないが当初役人は総て徳川家の譜代の家臣を用い佐竹の旧家臣は勿論登用しなかったし、光圀の時代には7人の郡奉行をおいて農村を治めた。

村を構成する一般の農民は本(ほん)百姓といい自分の土地を有し年貢を納め、土地もなく他の田畑を小作する農民は水呑(のみ)と呼ばれ村の表立った行事には参加できず大抵の村には数軒の水呑が村の戸籍に相当する人別帳に記されている場合が多い。今残っているわが家の某村の人別帳にも百姓何某、水呑何某と書かれている。村政の運営には名主(庄屋)組頭(与頭)があり数ヶ村の庄屋を代表する山横目庄屋があって、これには地方の豪農が任命され藩から苗字帯刀の待遇を受け、やがて郷士分などに昇格したものが多かった。

わが加藤木氏のような旧佐竹の家臣は主に御山横目庄屋、組頭などの村役人に採用された。前記した通り士族以下の者はすべてその家の系図はとり上げられ、墓碑を建てることも禁ぜられ一般農民は勿論氏姓を唱えることも許されず、土地の売買も制約をうけて、封建制の独裁的支配に屈従せねばならなかった。

わが家の墓石の中で一番古いのが正徳3年で今より260年程前のものであるのを見れば、建碑についての緩和政策はこの頃からであろうと推察される。

寛永年間(1640)に行われた検地はきびしくて一尺の空地も残さず調査をうけ、隠田(かくしだ)等も詮議をうけて年貢は五公五民から六公四民と収穫高の半分か或はそれ以上を上納せねばならなかったから農民の苦しみは他の藩領に比して苛酷を極め遂に久慈郡生瀬村のような農民騒動まで引き起す程の圧政的政策であったことが明かである。

ここに山川菊栄著「覚書幕末の水戸藩」の中からこの生瀬騒動の経緯(いきさつ)を書いて見よう。

この事件は初代藩主頼房が水戸に封ぜられた慶長14年(1607)の事だという。佐竹から徳川へと領主の変った年の秋10月、久慈郡小生瀬の百姓が刈入れを終えた所へ水戸から年貢とりの小役人が二人来たので、命ぜられるままに年貢を渡した。すると2、3日の後、また同じような下役人が二人やってきて、またしても年貢を出せという。村人はてっきりニセ役人がきて年貢の二重取りをすると思いこみ、猛りたって鍬、鎌などを振って追いまわし遂に一人を殺し俵につめ水戸城下まで送りつけた。水戸が何100年の領主佐竹から徳川にひきつがれたばかりではあり、藩主は幼年なので治世の初めに甘い顔を見せてはならぬと思ったのであろう直ちに兵を率いて小生瀬を襲い逃げまどう老若男女を片はしから斬りまくり辛うじて隣接する他領に落ちのびた数名の外は皆殺しにしてしまった。旧藩時代水戸程役人武士がいばり水戸ほど検米(年貢)のきびしい所はなかったのだが農民騒動が稀であった陰には藩初のこの流血沙汰が幕末まで人の口にのぼり農民がおびえきっていたせいであろう。年貢とりの役人が二度来たので贋(にせ)もの騒ぎになったのだが、実は初めに来た方が怪しく二度目の方が本物だったのをその本物の方を鍬、鎌を持って追いまわし、一人を殺害してしまったのは真実らしくそれから1、2日たって10月10日の刈り上げ祝の当日村中仕事を休んで隣り近所より合って笑いさざめきながら祝餅を搗いている最中、疾風のように一隊の軍勢が襲って来た。白刃一閃生首はうすの中にとびこみ、あたり一面血の海となり逃げまどう村人は、追われ追われて子を抱いた母も、老いかがんだ姑も、それをかばう若嫁も殺害され見るまに屍の山となってしまった。その時拾い集めた首を埋めたのが首塚、胴を葬ったのが胴塚、多勢一つの所に追いつめられ手を合せて命乞いをした所が、嘆願沢、最後に一人残らず斬り捨てられた所が地獄沢と今なおその場所にそのまま名を残している。こうして一村全滅した小生瀬は隣接する下野国(栃木県)から移住した農民に引きつがれ彼等は郷里の地名を持ちこんだので、今でもこの村には下野と同じ地名があちこちに残っているという。近世の百姓一揆の中でこの生瀬騒動ほど残酷な処分を受けた例は他に見ないし、当時小生瀬の人口がどれ程あったかは知らないが500人に近い村人が住んでいたと推察される。それが下役人一人を殺したといって500人が皆殺しにされたわけで戦国時代の余燼の消えない頃とはいえあまりにも無惨な話であり封建社会というものの暗さと独裁政治の無謀さとを現わす大きい一例といえよう。

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最終更新日: 03/05/04