佐竹の乱と加藤木氏

 

既に太田の佐竹氏より命を受け、大山城及びその支城の孫根城の用兵としてこの地に従ってきた孫根の加藤木氏は、別紙系譜にある通り二代加藤木内蔵(くら)、三代彈正(だんじょう)の頃、高根の台地に住みついていた。現在の御城(みじょう)の裏の田畑隔てた高根の台地の南端に現在でも加藤木屋敷という遺跡があり、その北方山の裾野に通じる小坂が加藤木坂と呼ばれ、その地名も残っている。

又加藤木内蔵が大山氏に属すると直ぐに、軍馬を司る厩(うまや)別当職と兵糧を取締る兵糧奉行職を兼務し、馬産地として有名な奥州での経験を活かし、今の馬台野の山林原野を利用して盛んに軍馬を放し調練を行ったので馬台野の地名がこの時生れたらしい。又屋敷の東方に叺内(かますうち)という地名が残っているが、これは軍の兵糧や馬の飼料を叺に入れて保管しておいた場所だったのでこの地名もこの時に起ったと伝えられている。

この高根の台地は当時、東方の低地に大山城を控え、南方孫根の台地に孫根城を望み、作戦上重要な地点で平坦地も多く、両方に山岳地帯を背負っており、この二つの城にとっては好適な兵站地としても重要な役割を果たしていた。

孫根城は佐竹の分家大山城三代義道の時大山城があまり狭隘だったので築かれたもので、大山城の支城である。現在は桂村の文化財として指定されていて東南北の三方は谷に囲まれていて要害の地であることが一見してわかる場所である。

加藤木氏が高根の台地に屋敷を築き、任務に着いてから数年後、佐竹氏の16代義舜(よしきよ)の時に内乱が起った。これがいわゆる「佐竹の乱」「明応の乱」といって佐竹一族の権力争奪戦である。

それは義舜は幼くして父義治(よしはる)に死なれ佐竹氏の16世の城主となったが、延徳2年(1491)同族の山入義勝、氏義の父子が宿願の本家乗っ取りの乱を引き起し、大軍を率いて太田城に迫り攻略、遂に義舜を追い出してしまった。義舜はやむなく母の実家で外祖父に当る大山氏を頼り、初め大山城内に身を寄せたが、城地狭く、堅固でないので間もなく大山城の支城の孫根に移った。

10年後明応9年(1500)山入勢は孫根城を攻め、城は落ち義舜は北の西金砂城に逃れ東金砂城の山入勢と対峙し奮戦、四年間の戦斗の結果遂に山入勢を滅ぼして太田城の奪回に成功した。ここに山入氏反逆を図ってから滅ぶまで約100年、佐竹氏にとっては、命運をかけた内乱であったから、この乱以来、加藤木一族は東砂金神社は敵神と称して、参詣は厳禁され今日に到っている。

このように孫根城は大山の支城として、その役割を果すこと11年間であった。その間加藤木一族も主家のため勇しく戦ったことはいうまでもないが、それにはより深い決意が読みとることができるのである。

つまり反乱を起したこの山入氏は約100年前もの昔から代々反逆の心があったので、ひそかに奥州の雄伊達氏と通じてその力を借りていたらしく、又一方伊達氏は常陸地方まで勢力を拡めようとする野望があったから、密約も成立していたものと思われる。伊達氏としては最初山入氏に加担して佐竹氏を滅し、次に山入氏も敗って常陸地方を掌中に治めようとする遠望であったことは真実であろう。この証拠としては、義舜の父義治の時代、この時も山入氏は謀叛を起しており、久慈郡小里の戦の際、伊達軍は山入勢の先陣を引受けて一戦を交えていたという史実を思えば山入氏の陰には常に伊達氏の毒手が伸びていたことがわかるであろう。

この戦中わが加藤木が非常な決意で戦乱に参加した理由はこの点にあるので、先祖代々宿敵伊達氏に対する深い恨(うらみ)に徹していたからで、わが先祖にとっての怨敵伊達に対する必死の報復であったと言ってもいい過ぎではない。

尚 加藤木弾正忠澄の名は 常北町の郷土史「頓化原の合戦」にも記されているのでご参照いただきたい。

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  最終更新日: 03/05/04