3 畠山氏の興亡

 

時に南北朝時代も半ばを過ぎて北朝方の足利尊氏は征夷大将軍に任ぜられ弟直義と共に国政を執り一方南朝方は、後醍醐天皇すでに崩じ最後まで北朝方に対抗していた南朝の忠臣北畠親房も亡んで、南朝は落日の如く有名無実の朝廷と化してしまった。一方天下を制した足利一族間にもやがて内紛が起り、尊氏は弟直義と対立して争をつづけついに直義は敗北し、これを観応の変(1350)という、この中央政府の乱れから端を発して天下に争乱の兆しを持たらした。

ここ奥州でも尊氏の命を受けて奥州探題となった畠山高国父子と直義の命による奥州探題吉良氏とが対立し、ついに戦乱となり畠山高国父子は武運拙く吉良氏に破れ宮城県の岩切城で自刃して果てた。

その後国氏の子大石丸は難を逃れ会津の芦名氏に身を寄せ、再挙を計っていたが40年後再度奥州探題職に任ぜられ国詮(くにあきら)と名を改め先の殿地ヶ岡城に拠ったが後攻防の便を考え二本松市の白旗の峯の山頂に城を築き二本松城(白旗城)といった。時に応永年間(1400)今より約600年前の事であった。

我が加藤木氏は40年の間畠山氏の武将として戦争に参加したものと考えられるが、そのころ奥州には斯波、吉良、畠山、石塔(いしどう)の四探題が並び立ち外に伊達氏及び数氏の豪族が勢力を得ており互にその権力を競っていた。

その戦力の源は鎌倉時代末期から南北朝内乱期にかけて著しい成長を遂げた在家農民の力及び、農民を支配した村落の長である領主(地頭)とがその主なるものであったから加藤木氏が主君に当る畠山氏と共に戦に参加していたことが想像できるであろう。

その後吉良氏は畠山氏を破って益々探題職としての威武を振っており一方40年間再挙を計って戦力を蓄えていた畠山国詮は再び吉良氏を征圧しようとせまったが四探題の一人斯波氏が吉良方に加勢したために一旦宮城県まで兵を進めたが、遂にやぶれ二本松に退き復仇に備えた。勝ちのこった吉良氏もその後斯波氏に圧倒され福島県安積(あさか)郡に落ちゆき亡びたという。

畠山氏四代満泰は二本松白旗峯に築成した攻防堅固な城を更に改築整備してこれを二本松城と唱えた。これが二本松城の起りである。

畠山氏の所領は東西安達郡一帯であったから、加藤木氏も依然として東安達郡長居領に安住して永く畠山氏に仕え忠勤に励んだ。

この二本松城は直立して雲靄渦まく高峻な山頂にあるので、霞ヶ城ともよばれ、なお危急の際には源氏の白旗が(畠山氏は源氏の後裔である)どこからともなく舞い下りてくるというので、一名白旗城ともいわれている。なお攻めるに難く守るに易い天然の要害で、巨大な蜈蚣(むかで)が山の裾をめぐって城を守護しているなどの伝説も残っている。山頂に立って望めば南北に僅かに平野を見渡すばかりで、西方には安達太郎山や吾妻山等の山岳が天に連らなって屹立し、東は田野の中に光る阿武隈川が南より北に向かって流れ、その流域の彼方には阿武隈山脈が蜒々(えんえん)として薄碧く走りつづいている。

昔この阿武隈川の東側が東安達郡といい、対岸の二本松市の方が西安達郡といったが現在では総じて安達郡と称し、加藤木郷は東安達郡だったから阿武隈川の東側、二本松から見れば東南に約12キロメートル岩代町に偏入されている小郷である。

伝説で有名な安達ヶ原は二本松より東約4キロメートルあまり福島市によった所にあって、阿武隈川の奔流を渡ると、安達ヶ原公園の小高い丘が見え、公園の入口には老杉が聳え、杉の根本に一基の碑が立っているが、これが有名な安達ヶ原の鬼婆を埋めた黒塚だという。石碑の表に、今より約1,000年前の人平兼盛の歌が次のように彫られている。

 

みちのくのあだちが原の黒塚に

          鬼こもれりといふはまことか

 

安達ヶ原周辺は奈良平安時代を経て南北朝から鎌倉時代の後まで荒茫とした原野だったに違いなかろうが、戦国時代になるとこの附近一帯は奥州七郡(白河、石川、岩瀬、安積、安達、信夫、田村)を席捲した「奥州の鷹」伊達政宗と、奥州探題畠山氏一族の激しい勢力の抗争地で、山野を流血で彩った地でもあった。

天正13年秋(1585)二本松城主畠山11代畠山右京亮義継は政宗のために眼前の阿武隈川の対岸、つまり東安達郡一帯を占領されたので止むなく政宗の叔父伊達実元を仲介として政宗に和議を申し入れて残る西安達郡を確保しようと計ったところ、一旦は政宗も拒絶したが、父の輝宗は窮将の苦衷を憐んで政宗にとりなし遂に義継の乞いを容れることにした。義継は10月8日、譜代の家臣23騎を引きつれて輝宗の居館小浜の宮の森(現在岩代町小浜)へ和議を結ぶため阿武隈川を渉って行った。和議が成立した後祝宴となり、やがて義継は輝宗に見送られて館の出口に来ると義継はいきなり輝宗を小脇に抱え刺刀を突きつけ、突然の出来事に驚いている伊達勢をしりめに、悠々と二本松城さして騎馬を走らせた。この頃政宗は和議の交渉を父にまかせて錦に映える美しい安達ヶ原を駈けまわって鷹狩に興じていたが、この椿事を使者からいち早く知らされると、具足もつけず手勢100騎を引きつれ義継の一行を追跡していった。

小浜から二本松領の国境阿武隈川畔まで凡そ6キロメートルようやく政宗は義継の一行に追いつき、両者の間に殺気が漲って行った。

鈎瓶落しの秋の日の淡い残照は、阿武隈の川筋一帯に漂い、うっすらとした夕靄の中にすすきの白穂が茫として浮かび粛殺の鬼気まさに肌に泡を生ぜしむるものがあった。

ここが名にしおう安達ヶ原の粟の須の夕暮時である。血気の政宗は馬上から躍り上がり歯がみをしたが、人質に父を獲られてはどうにもならない。しかし退くわけにもゆかずそこで「かまわず撃て!」政宗は部下に命じた。一発の銃声が静かな山野にひびき川の彼方に余韻を残して消えて行った。その銃声を合図に彼我入り乱れての激闘がつづき、義継は輝宗を刺し殺すと悠々として腹を十文字に掻き切って自害して果てた。23人の郎党も悉く討死し、二本松軍が急便の知らせで救援に馳せつけた時は、すでに伊達軍は引揚げた後であった。これが歴史に今日まで残っている粟の須の戦という。

旧暦10月8日の利鎌のように冴えわたった片割月の光に照し出された激戦のあとは、まことに鬼哭愀々たる有様で踏みにじられた秋の枯野にはどすぐろい血糊があたりを染めて無残な彼我の死骸が累々としていた。

この粟の須の変を発端として政宗は父輝宗の初七日の忌を終えると、旧暦10月15日数千の予備軍を率いて、二本松城下に殺到し城を完全に包囲したが攻防堅固な二本松城は落ちず年を越えやがて積り積っていた安達ヶ原の雪も消えようやく水ぬるむ春となり再び攻防戦が開始された。さしもの伊達の軍勢も攻めあぐんで持久戦となった。

一方畠山氏は同盟会津の芦名氏の援軍を待ったが、一向に姿を現わさず次第に城内の窮迫は耐え難いものになったのでついに7月16日の夜、義継の夫人お登世の方と遺児海王丸、国王丸の三人は僅かの手勢に守られて虫の音すだく夏草のしげみを踏んで西の方安達太郎山麓を孤影悄然と落ちていった。

一行がとある峠にさしかかった時城の方角を振り返り見れば白い靄に包まれ荒涼とした夏草の彼方に一点赤く焔が立昇っていた。篭城兵達が城に放った火の手である。

南北朝以来の豪族畠山氏の一族の哀れな最後であり畠山氏は12代240年にして滅んでしまった。時に海王丸は12才国王丸は10才であったという。

その後この遺児二人と母は会津の芦名義広に援けられたが、この芦名氏も畠山氏亡んで5年後の天正17年伊達政宗との決戦に敗れ、義広は自分の生家常陸の佐竹氏に逃れたので梅王国王の遺児二人も常陸に移りここに芦名氏は亡んだ。

芦名義広は常陸に入って佐竹義広と名のり江戸崎に住み、兄梅王丸はここで元服して、先祖の姓をとって畠山義統(よしのり)と名のったが、美少年だった義統は、義広から寵愛され、遂には男色のもつれから斬殺されてしまったと伝えられている。弟の国王丸は父義継に似て剛勇な人物であったので常陸より再び会津に到り畠山12代を継いで二本松右京進義孝といい、その子孫は、徳川時代に入るや上杉、薄生、加藤諸氏などの客将を経て、最後に水野氏の客分となったので水野氏の移封の際はこれに従い唐津、浜松、山形等に居住地を変更したが最後は山形県米沢に定住し今日まで続いている。

二本松駅から奥州街道(国道4号線)を横切って、山の手の方に称念寺(しょうねんじ)という寺がある。宗派は時宗であり近年の火災で殆んどが焼失し、本堂はかなり立派に新築された。この寺が二本松氏(畠山氏)の菩提所で、安達ヶ原の粟の須で自刃して果てた12代義継までの大きい墓碑が建ち、その墓所の参道の両側には、義継と共に憤死した家臣の墓石が今に至るまで主君を護るかの如く並んで建てられている。

これらの墓は昭和の世になって二本松氏の末裔が建立した墓で、その前に立って昔を偲ぶ時、今を遡ること数百年前の争乱の中に、この畠山氏に忠勤を励みやがて敗れ去ったわれら加藤木の先祖の靈がこの墓の周辺にも漂っているかのような感を抱かせてくれた。

畠山氏墓碑の裏面には次のような碑文が刻まれており漢文なので、読み易く書き下し文としてここに紹介しておこう。

碑文
「我が家は本(もと)畠山氏と称し、後二本松氏と改めたり。実に清和源氏の後裔源義家の孫の義康より出る。義康は足利氏と称し、其の孫の義純(よしずみ)は畠山重忠の滅後、其の食邑(しょくゆう)(領地)を領して畠山氏と称す。義純の曾孫高国は興国年中奥州探題となり屡(しばしば)その地に転戦す。後南朝に帰属して吉良(きら)貞家を攻めたり。その子国氏及び其の族100余名は岩切城に殉ず。国氏の子国詮(くにあきら)は管領足利持氏の命に依り、伊達持宗を大仏城に攻む。探題職に補せられ、其の子満泰は城を二本松に築き、威四隣に振う。探題職かくの如くして子孫相承けて二本松の城主となる。高国第11世義継は武略あり。将に伊達政宗と相和さんとす。偶(たまたま)粟の須の変ありて義継政宗の父輝宗を刺す。王従ともに斃(たお)れ老臣の新城弾正等(あらきだんじょう)は遺孤の梅王と夫人の大内氏を擁立し、また克(よ)く将士を鼓励して敵の攻防に当る。歳を越え相馬義胤(よしたね)は開城を説くも梅王肯(がえ)んぜず。城を焼き弟国王と会津に走りて芦名義広に倚る。時に梅王甫(とし)12才国王10才なりき。既にして芦名氏の滅後、兄弟は義広に従い難を常陸に避け佐竹氏に寓す。梅王害に遭うに及んで国王復(また)会津に帰り首服(元服)して右京進義孝(よしたか)と称し、姓を二本松とす。上杉、薄生、加藤の諸氏はこれを好遇し、僧天海は旧(もと)の義孝を知り徳川氏にすすめんと欲して果さず。岡崎の城主水野堅物(けんもつ)は義孝の子孫を招き世(よよ)その客将となる。後水野氏の移封に逢い唐津、浜松、山形等に従う。不宵錠(じょう)は実に高国22世の孫たり。昭和8年10月8日、一族をつれてこの地に来り、歴代の霊を称念寺に弔う。寺の累(由来)は畠山氏第四世満泰の開基にして、後小松天皇の勅願を賜わり名刹たり。その後治乱興亡既に600年能く祀りを存する者殆んど空し、感慨止まず不宵の宿志止(とど)め難く、この地の有志と謀りて其の西方の山上に相して、是に於て起工す。城内には粟の須の殉難二三士及び前後の忠節の士を合祀し、10月工全くなる。蹉呼(ああ)錠の撰(せん)(浅い考え)は克(よ)く宿志を達するには劣れども、実に皆祖宗の英霊と、旧領地諸君の賜に因るもの、真(まこと)に感激の至りなり。茲(ここ)に其の梗概(こうがい)を叙して以て後日につつぐ。」

昭和9年10月8日医学博士二本松錠識

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 最終更新日:  03/05/04