2 加藤木姓の起源

 

現在の加藤木郷について見ると、二本松の駅より東南約12キロメートル 二本松市上長折字加藤木で、海抜300メートル程の山波がつづき、その山と山の間を縫うように県道が走り川も流れ狭い谷間に農家が点在し戸数約30戸程あり、おそらく山仕事や出稼ぎで生計を立てているかのように見うけられる。畑は傾斜地が多く桑畑も見えるが面積も少く水田は昔のままで基盤整備にもとり残され、重なり合った山々はすすきと雑木と赤松とに覆われ炭焼く煙がうっすらと棚引いて、静寂さの中に明け暮れる典型的な一山村である。この山村加藤木郷について見ると、前記岩代町郷土誌の資料にみる「往古宮居の在りし所」と述べてはいるが、今やその城郭の趾も、礎石らしい石も見当たらない。只谷間の水田を両側にはさんで移川(うつしがわ)という阿武隈川の小さな支流が流れていてその両岸の堤防には篠竹らしい竹が繁茂し、郷の者はこの竹のことを今でも「大名笹」といっていること、郷に加藤木坂という地名があること、県道筋の小高い丘に稲荷社が祀られていて「加藤木公園」と刻まれた石碑が建っていること等が遠い昔を物語っているかのようである。

このような山間地に初代民部少輔が領主となりやがて滅ぶまでの約280年間居城を構築して勢威を振っていたことは想像するに難くないが、当時の山野の領有は肥料飼料その他の採集源として農業生産には欠くことのできないものであり、領主にとっては領土の支配権を確立する上に不可欠のものであったであろう。

尚ここに加藤木賞三翁の遺稿から加藤木郷についての実地調査資料の一部を引用し参考に供しておく。

『加藤木の本筋は陸奥の国東安達郡長居領の鹿峠村に住せる加藤民部少輔という者にして同村及び近傍の村々を領有していた地頭職であった。』 とあるのを見れば、この加藤木郷のどこかに鹿峠という地名があったかも知れない。岩代町の資料では鰹木とあり賞三翁のものには鹿峠とあるが何れも加藤木に通じていてまことに興味深い感をいだかせてくれる。

さて、加藤民部少輔が長居領の領主となってから約30年後の興国2年(1341)北朝方の足利尊氏の任命をうけ、足利氏の一族で文武兼備の名将で音に聞こえた清和源氏正統13代に当る畠山太郎上野介高国が陸奥国東西安達郡の探題職として下向その任に着いた。ここ長居領は勿論探題職の管轄下にあったので直ちに畠山氏に属して其の親交を厚くし、高国は最初東安達郡長居領四本松(現在の岩代町四本松)に居を構えていたが、仮の城でもあったので幾年も経たず西安達郡の二本松の附近に本城を築くことにし、場所は現在の塩沢、殿地ヶ岡城といった。その頃長居領内には山林が多く繁茂しており、築城に要する木材の供給源であったので、高国は加藤民部に対して築城奉行の要職を与え、その任に当らせたという。加藤民部は進んで其の命に服し速かに築城工事に取りかかり奥州探題職の居城故に、大いに忠勤を励むようにと部下を督励短期間のうちに築城を完了しつづいて畠山氏の仮の城四本松から雌雄の松の大樹二本を根掘りとし、新しい城の門前に移植してその景観を添え最後まで尽力したという。二本松の地名の起りは或いはこれ等のことが因をなしていたかも知れない。又松の木は昔から繁栄のシンボルとして貴重な樹木のうちの一つである。

高国は大いに感服し、心から加藤民部の功績を賞し禄高を加増、姓氏まで贈られたのが加藤木姓の起りという。つまり加藤民部の所在地が当時鹿峠であり、築城工事はすべて木に関係があり二本の松の移植によって城に美観を加えた等の手柄によって、加藤の下に木の一字を入れ地名を「加藤木」と呼ぶようになったことなども、明瞭に根拠のあったことで、最も重要な事実の一つとして知っておく必要があろう。現在岩代町には加藤木姓を名のる者は一人も無いがこの理由については後に述べるとしても、只加藤木の地名だけが数百年を経た今日、明確に現存している。

次に畠山氏の二本松における興亡の歴史と我等加藤木の先祖の盛衰とが大いに関連あるので畠山氏についての詳細を明記しておく。


二本松市加藤木在住の 安齋安一氏より 現在の加藤木集落の写真がよせられているので

ここ をご覧ください。


加藤木秀和氏が岩代町加藤木の貴重な写真を撮影されているのでここに掲載します。

          

2001.04.16撮影

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