長崎国際電信局について

 

大成建設の社内報に 国立科学博物館主任研究者の 清水慶一氏が 電信建設のはじまりについて書いておられるので紹介する。 当時のわが国における 横浜および長崎の国際電信局の重要性が伺える。

 

「電信建設のはじまり」     国立科学博物館 主任研究者 清水慶一

本格的西欧建築の片鱗を残す海底電線陸場所

電気万能の世の中である。 今や電気がどんなふうに使われているか、いちいち例を挙げる気も起こらないほど、あらゆるところで電気が使われているのだ。

ところで、目にも見えねば触れもしない、電気という物理現象は、最初はどのように実用化されたのだろうか。 おそらく、電気を使った通信手段、つまり電信が、最も早い実用的な電気利用だったのではないか。 少なくとも、わが国では、照明でもなければ動力でもなく、まず電信網の整備から始められたのである。

電気万能の時代の幕開けは、電信にあり。 という訳で、今回は電信建設のはじまりについて述べることにしよう。

もう数年以上も前のことだろうか。 長崎に行って、当時の西欧建築を見て歩いたことがあった。 大浦天主堂やグラバー邸と、長崎はまさに初期の西欧建築の宝庫である。 そんな中で、長崎の市街地から少し離れたところに、「海底電線の陸場所」が残っているという話を聞いた。

とにかく見に行ってみた。 その建物は、ずいぶんと古い時代の西欧建築だった。 竣工は明治4年。 煉瓦の形や軒蛇腹、マントルピースや窓といったディテールに、本格的な西欧建築の特徴を今でも少し残している。

 

電信は世界を結ぶ

実は、デンマークの大比(クリレート・ノーザン)電信会社という会社が明治4年に長崎ー上海間および長崎ーウラジオストック間を結ぶ海底電線を布設し、その線を地上に引き上げた場所に建てられた施設がこの建物という。

大比電信会社は、明治維新の7年前、1861年からすでにシベリア横断電信の建設を始めており、10年後の1871年にはウラジオストックに達していたのだった。

このヨーロッパーウラジオストック間と海底電線で長崎を結び、さらにここから上海を結ぶキーステーションがこの陸場所だった。 より正確に言えば、この場所から地上線で外国人居留地の近くのベルビューホテルを結び、ここで電信事務を執ったのである。

なんと遠大な計画と事業ではないか。 今から120年以上前に、長崎はシベリア線を経由してヨーロッパの電信網と結ばれ、さらに大西洋海底線で北米大陸とも交信することができたのである。

明治5年にニューヨークに滞在していた大久保利通は東京宛に電報を打ったが、わずか5時間で長崎で受信されたという。 ただし、東京に着信したのは、さらに3日後だった。 なぜなら、当時東京ー長崎間には電信が開通しておらず、ニューヨークー長崎間の通信よりずっと短いはずのこの区間を人の手で電報が運ばれたからだった。

現在の日本は、高度な情報ネットワークが整備された国と言われるが、その始まりの始まりは、こんな有り様だった。 デンマークの会社が遥かシベリアの大地を越えて電信網を作り、イギリスがインド回りで中国まで電信を引いていた、というのが当時の西欧の国力だったのである。

 

日本の電信建築のはじまり

もっとも、日本での電信そのものの架設は、この国際通信線の架設より以前に行われている。 実験的には、すでに幕末に松代で佐久間象山が行い、鹿児島でも島津斉彬が行ったとされるのだ。

日本で初めて実用的な電信線が引かれたのは、明治2年の横浜だった。 お雇い外国人技術者が、横浜灯明台役所から横浜裁判所(後の県庁)の間、わずか760メートルの間を電信で結んだのが、日本の実用電話の始まりである。

こんな訳で、初めての電信には電報局などという特別な建物は建てられていなかった。 庁舎の一隅に、プレーゲ式という型の電信機械を据え付け、その間に電信線を引いたのが始まりなのだ。

明治4年にいきなり国際線が長崎に開通した。 これに比べれば、遅々としたものかもしれないが、日本の電信網も整備されていった。 明治2年の半ばには東京ー横浜間に、翌年には大阪ー神戸間に、そしてついに明治6年4月には東京ー長崎間に電信が開通したのである。

しかし、当時、一般の人々は電信を一種の魔術扱い。 電信線の下をくぐらぬようにしたり、扇子をかざして通る人、果ては手紙を結び付けて送ろうとする者まで現れる始末だった。 また、電信柱を立て、架線も張るという電信工事が原因で福島県や三重県では騒動さえ起こったと言われている。

電信建設は、長距離に渡って架線を引き、キーステーションを設け、各地とのスムーズな交信を行うネットワークを作り上げる技術である。 日本のように人口の密な国では、こんな電信網の建設自体が西欧の文明技術を具体的な形で人々に知らしめる作業であったに違いない。

 

地味な基幹施設建設に歴史の光を

明治の初めごろ苦心惨憺の結果、引き遂げた電信線や電信柱はどこかに残っているのだろうか。 全国に建設されたはずの電信局の建物というのは、いったいどこに消えてしまったのか。 技術革新の結果、無用の長物になってしまったとは言え、日本ではどうもことごとく、こんな基幹施設の遺構を取り払ってしまう傾向にある。

そんな中で、まるで奇跡のように海底電線の陸場所が残っている。 おそらく、探してみれば、他にもさまざまな産業や技術の始まりを物語る建物があるのじゃないだろうか。 今後、こんな種類の建物が数多く発見されれば、地味で大変な建設事業を行ってきた分野にも歴史の光が当たっていくなずだ。

 

 

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