10 賞三 士族授産

 

慶応2年(1866)6月、水戸から脱走して江戸に入った賞三の、その後の行動が判らないと本稿その六に書いた。

この頃から天下の大勢は、急速に転回した。慶応2年12月、徳川慶喜が第15代将軍に就任したが、翌3年10月には大政奉還、12月朝廷は王政復古を宣言、年が明けた慶応4年1月3日には、鳥羽伏見の戦いに幕府軍が敗れ、慶喜は海路江戸に帰り、2月12日から上野寛永寺に謹慎した。

4月11日江戸城開城、慶喜はこの日水戸に向い、同地で謹慎すること約4ヶ月(この年閏4月あり)、7月19日水戸出発、同月26日海路駿府(静岡)に到着した。それより前、この年の5月に徳川宗家は存続を許され、僅か6歳の田安亀之助(後に徳川家達)が相続し、駿河・遠江・三河三ヶ国70万石の駿府藩主(明治2年静岡藩と改称)となった。

この間の水戸藩の情勢については、ここでは繰り返さないが、加藤木賞三は何処で何をしていたのか、彼の消息を語る文書は見当らない。しかし賞三は、多くの水戸藩士が命を失ったこの混乱の時期を無事切り抜け、明治2年(1869)には、士族授産事業のため静岡藩の雇(やとい)となった(前掲「藻塩草」による)。

さきに徳川宗家の駿府藩が成立すると、多くの旧幕臣が、無禄でよいからと駿河・遠江に移住してきた。藩としては、これら旧家臣に生計をいとなませるため、藩内の未開拓地の開墾と、茶の栽培を奨励した。駿河地方の茶の栽培は、江戸時代に入ってから発展したが、幕末開港以来、茶が生糸につぐ輸出品となった。

それにしても、幕臣ではない賞三が、どうして静岡藩のために働くことになったのであろうか。この疑問に対しては、先ず賞三が、かねて開拓・勤農の志を持っていたことを明らかにしたい。

筆者は茨城県立歴史館学芸第二室長仲田氏から、明治21年74歳の賞三が、二宮尊徳との巡り合わせを追憶した文書につき教示をうけた。これは興味深いものがあるから、その要旨を左に紹介する。

嘉永6年(1853)の春、懇意な剣客斎藤彌九郎(本稿その3参照)から、二宮尊徳先生が、幕府から日光東照宮の神領(89ヶ村、4064町歩)の荒蕪地(神領の約4分の1)開墾、その他領内の荒廃した農村復興対策実施を命ぜられ、今年8月には現地に住み着き事業着手の予定である(註22)。ついては自分と共に働く適当な人物を見つけてほしいと、尊徳先生から頼まれ色々と考えた末、貴殿を推薦したい。3、4年も尊徳先生に従って働けば、開墾その他農村復興事業について会得する処があろうし、その後故郷に帰れば水戸藩領のため、大いに役立つことになろうとの話であった。

このような仕事は、かねて自分の希望するところであったから、直ぐにも応諾したかったが、藩のため江戸で働く身分故に、当時国元に居た経験に富む目上の人々(戸田忠敝・藤田東湖・桑原治兵衛等)と相談の上、答えることとし、水戸に問合せたところ、何れからも賛成の返事があった。

その結果二宮先生から、兎も角面談をということで、斎藤氏の紹介状を持ち、嘉永6年4月17日先生宅を訪問した。色々話し合った後に、自分に随行尽力してくれと望まれた。折りから当日は、東照宮の大祭日にあたり、お神酒を一献やろうと引き留められ、質素な肴(鰹節を削ったのに醤油をかけ、豆腐と蕗の煮付けの三品)で、酒を酌み交した。その後再三先生を訪ね、その都度有益な話を伺い、先生に随行の決意を、いよいよ固くした。

ところが、この年6月3日ペリーの率いるアメリカ艦隊の浦賀入港によって、天下騒然となり、水戸から要求される情報の蒐集とその報告のため、賞三は極めて多忙となった(藤田と戸田が、幕府の防海参与となった斉昭に召されて、江戸に入ったのは7月19日であった)。しかも水戸からは、情勢の急変を理由に、二宮尊徳随行の件を断るよう指示してきた。己むを得ず、賞三は水戸よりの書面を見せ、二宮先生も余儀ないことと了承した。

以上は、賞三が書いた二宮尊徳追慕の文の前半の要旨である。後半に賞三は、この時尊徳が彼に与えた忠告と、それに対する自らの反応を述べ、晩年に至っての慙愧の心情を吐露したが、そのことについては本稿の最後に書く。

要するに静岡藩の士族授産事業のため働くことは、賞三のかねて望む種類の仕事であった。それにしても、徳川宗家の家臣でもない賞三に、眼をつけた人物がいたに相違ない。しかし、それは誰であったかを知る史料は見当らず、以下筆者が若しやと思う三名の人物について述べるが、或はそのうちの一名かも知れない。

当時隠居の身ながら、未だ静岡藩の幹部に対し隠然たる発言力を持っていた徳川慶喜は、水戸藩主斉昭の七男であり、静岡に移る前に水戸に四ヶ月間滞在した。父斉昭にも目をかけられた賞三の存在を、恐らく耳にしていたであろう。若い日には自ら農業に励み、また二宮尊徳に従って荒地開墾、農村復興の事業に挺身しようと一時は決意した賞三を、多数の旧幕臣の生計を案ずる慶喜が、士族授産授業に役立つ人物と見込んだとしても、不思議ではない。

静岡藩(後に県)の士族授産―開墾事業が行われた地域の一つに「牧の原」がある。その開墾のリーダーとなった中条景昭は、慶喜側近の一人であった。中条は、講武所剣術教授方なども勤めた元幕臣で、慶喜の江戸城退出後、200余名の精鋭隊を率いて警護にあたり、上野から水戸に、更に静岡に移ったが、隊名は静岡で新番組と改称された。

明治2年7月、藩は新番組に牧の原台地(東海道線金谷駅のやゝ北方から南方に延びる広い台地、金谷原と呼ばれたが明治4年牧の原と改称)の開墾を行わせることとし、手当金も支給した。中条はその開墾方頭(かいこんかたがしら)を命ぜられ、隊員を率いて牧の原に移住、茶園の開拓に従事した。しかし旧武士の一団、誰か農業の知識経験があるアドバイザーが必要であったことは容易に想像できる。

この中条はなかなかの人物で、明治4年7月廃藩置県を断行した明治維新政府から、神奈川県令(当時の神奈川県は、相模国三浦・鎌倉両郡と武蔵国の三郡よりなり、横浜を含んだ。県令は県の長官、後に知事と改称)を拝命した。しかし移住士族の多くが開墾地に定着しておらず、統率者は現地を離れるべきでないと固辞し、終生官途につくことなく、牧の原開墾と士族授産に身を捧げた(中条については、静岡新聞社「静岡大百科事典」及び原口清・海野福寿「静岡県の百年」による)。

静岡藩の士族授産のための開墾事業は、牧の原の外に、三方原(みかたばら)(浜松市、明治2年より開拓を始め、土着する士族800戸に及んだ)、万野原(まんのはら)(富士宮市、士族250戸土着)愛鷹(あしたか)山麓などで行われた。

またわが国の「郵便の父」として知られている前島密(註23)が、係わった事業もあった。前島は明治2年3月、静岡藩の遠州中泉奉行を命ぜられ、奉行所の所在地中泉(現在の磐田市の一部)地域で、同年12月明治政府に召されて民部省勤務となる迄の短期間ながら、700戸余の士族授産事業(桑の栽培と養蚕)に力を注いだ。賞三が前島の旧知であったと確定できる史料はないが、嘉永年間、本稿にしばしば登場した桜任蔵を介して、両人が顔を合せた可能性はある。

前島は若年時代江戸で苦学を続け、嘉永4年(1851)頃より、桜任蔵から筆耕(料金をもらって書物や書類を書き写すこと)の仕事を与えられ、生計の一部にあてていた(山口修「前島密」及び鈴木常光「桜任蔵」による)。任蔵は江戸で志士として活躍中の収入を、写本・筆耕・製本などの仕事(水戸藩から「大日本史」の印刷、製本を引き受けたこともある)に仰ぎ、そのため多数の奇書、珍書、貴重書を所蔵していた。

当時の書物は、多くは木版刷りで部数も限られ、かつ高価であった。このため筆写本が作られ、それが売買された。若い前島は、任蔵に蘭書からの訳本類筆写の仕事を頼み込み、それで収入を得つつ、同時に西洋事情の勉強をした。

任蔵と賞三との親交については、既にしばしば触れたが、嘉永3、4年頃には、賞三は任蔵の江戸大塚台町の家に同居していたから、前島が賞三と接触する機会はあったのではなかろうか。

色々と想像をめぐらしてみたが、何かヒントでも得られる史料はないかと、静岡県立中央図書館に問い合わせてみた。しかし同館所蔵の士族授産に関する諸史料に、加藤木賞三の名前を見出だすことは、残念ながらできなかったとの回答(註24)であった。

しかし賞三は、明治5年(1872)大蔵省勧農寮(寮は局に相当する)に出仕した。この頃中央政府の重要ポストは、維新に貢献した公家や大名および薩長土肥の出身者によって占められたが、その下で行政の実務を担当できる人材に不足し、適任者を旧幕臣らに求める場合が少なくなかった。静岡藩関係では、渋沢榮一や前島密が、その代表的な実例であった。賞三は、そのような大物ではないが、静岡での働きが認められたのであろう。

賞三の勤めた勧農寮は、明治政府が力を注いだ殖産興業の行政部局で、単に農業のみならず工業をも担当した。わが国第二番目の機械紡績工場であり、また官営模範紡績工場であった「堺紡績所」もその管轄下にあった。

しかし賞三は、翌6年2月には職を辞して、相模(恐らく妻もと子の実家であろう)に預けていた妻女を連れて水戸に帰った。既に賞三はこの年59歳、恐らく望郷の念切なるものがあり、また当時中央政府の行政組織改組が頻繁に行われたことも、彼の嫌気を招き、余生を郷土のために捧げようと決意したのではなかろうか。

  

(註21) 本稿は、吉田武三「松浦武四郎」「定本松浦武四郎」北海道新聞「北海道大辞典」榎本守惠・君尹彦「北海道の歴史」等を参考とした。

(註22) 二宮尊徳は、この頃下級の幕臣となっていた。日光東照宮神領の復興事業中、安政3年病死した。

(註23) 前島密は天保6年(1835)越後国下池部村(上越市)の豪農上野家に生まれた。若くして父を失い江戸に出て苦学したが、慶応2年31歳の時、幕臣前島家を継いだ。同4年駿河藩留守居役となり静岡に移り、明治2年遠州中泉奉行に就任。翌3年より明治政府の民部・大蔵両省に奉職した。明治4年駅逓頭となり、近代郵便制度の創設に着手、同6年ほゞその基礎を確立した。その外、前島は鉄道の建設、海運の振興、新聞の発刊、東京専門学校(早稲田大学の前身)の校長など、多彩な活動を行い、大正8年(1919)85歳の高齢にて死去。正二位、男爵。

(註24) 静岡県立中央図書館資料課の回答要旨は次のようであった。

加藤木賞三の名は「明治初期静岡県史」中の官員履歴及び牧の原入植士族に関する詳しい名簿にも見当らない。従って三方原、万野原、愛鷹山など、いずれかの開墾事業に携った可能性は強いものの、これら諸地域についての資料は乏しく、加藤木について知ることは不可能である。

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最終更新日: 03/05/04