斉昭雪冤運動と賞三

 

神職となった賞三は、早速斉昭の雪冤運動に参加した。水戸領内の神職は、二代目藩主光圀と9代目の斉昭による神社尊重の政策を感謝し、斉昭に対する忠誠心の強い者が多かったようで、彼等は改革派の藩士らと相前後して、早くから雪冤運動に乗り出した。

神職等は、彼等の連名による嘆願書を、藩の寺社奉行宛に提出し、斉昭の「慎み宥冤(罪を許すこと)のため身命を抛ち、幕府はもちろん、朝廷までも愁訴する決心である」から、われわれの願いと決意をその筋に伝えてほしいと頼んだ。また神職等は、いわゆる「義民」のリーダーの役割をもつとめた。

弘化元年(1844)10月、在江戸の御三家尾張・紀州両邸と、三連枝(水戸藩の親戚の三藩主で、幕命により当時水戸藩主慶篤の後見人となっていた)に、斉昭の宥冤を訴願した「義民」の一団が、水戸に引き揚げた後にも、そのリーダー格10名は江戸に留り、更に運動を続けた。その中の一人として賞三の名が、信頼すべき史料「水戸藩史料」(別巻二十五)に記載されている。

この10名のうち神職は4名、郷医1名、その他5名は庄屋兼横目であった。(「水戸市史」中巻(四))。彼等は協議の結果、老中・目付など幕府の要職者に、直接訴願することに決したが、訴願迄の行動を書き留めた同志の一人袴塚周蔵(庄屋兼横目)の記録が「水戸藩史料」に引用されている。大事を前にして彼等が、どのように行動したかゞ、この記録によって窺え、興味深いものがある。

弘化元年10月20日、一同は江戸小梅の水戸藩下屋敷から遠からぬ小倉庵に集合したが、協力者として頼三樹三郎(頼三陽の子、尊攘派の浪人儒者、水戸の志士らとも交流したが、安政大獄の時処刑された。享年35才)と、常陸国出身当時幕府の下僚であった桜任蔵(註7)が同席した。頼はたまたま江戸にあり、桜は斉昭の「屏居(へいきょ)(隠居)は水戸藩の不幸にとゞまらず、天下士気の消長、文武の盛衰に関す」として、水戸藩士民の雪冤運動に協力し、終に幕府の役人をやめて浪人となった人物である。

集った一同は「悲憤のあまりに堪ず、大飲放歌或は剣舞す」と興奮状態であったが、会合は夜に入り、更に深夜には舟を隅田川に浮かべて談論を続け、漸くその後の行動につき結論をえた。翌21日の夜明け、舟から船宿の離れ座敷にあがり、同志10名が命をかけて雪冤の嘆願を行うことを誓った血盟書を、頼三樹三郎が書いた。

この血盟書に、各人署名血判することになったが、賞三は順番が来たにも拘らず、直ちに筆をとらなかった。それは血盟書の文章について、思うところがあったからだが、同志の一人は血盟に後れをとるのかと嘲笑し、桜任蔵も何故決意しないかと大声を出した。

己の本心を誤解する同志の言動に憤慨した賞三は、直ちに筆をとって署名し、小刀を抜いて指を刺したが、力が入ったため、吹き出した鮮血は座敷に広く飛散した。居合せた者は皆驚き、急いで座敷の血を拭い、再び舟に乗って船宿を去った。

翌10月22日は、桜任蔵の家に一同集まり、いよいよ翌23日に、老中牧野備前守忠雅らに駕籠訴(かごそ)(通行中の駕籠行列に対し訴状をささげて訴願すること)を行うこと、及び嘆願の訴状の文案を決定し、各人自筆の訴状を書き上げた。これで全同志が、それぞれ訴状を懐に収め、誰でも飛び出して訴願できる準備がとゝのった。

一同はその夜桜宅に泊り、当日の朝、楠木正成の画像を拝して神酒を汲んだ。同家を去って次は、当時の著名な剣客斎藤彌九郎(水戸藩主斉昭より扶持米を与えられ、藤田東湖ら改革派の藩士と親交を結んだ)を訪れた。これは駕籠訴からの引き揚げ場所を、斎藤邸としたことの挨拶であったと思われる。彌九郎父子は、迷惑がらずに酒肴を出し、自ら給仕して彼等を歓待した。

10人の同志は、このあといよいよ計画通りに手分けして、行動に移った。6人は老中牧野忠雅の邸前にて、その登城を待ったが、門が2つあり、どちらの門から出てくるのか判らなかった。二人一組となり、各組毎に邸前を徘徊していると、門が開かれて老中の駕籠が出て来た。頃合いの位置にいた後藤権五郎(庄屋・山横目)が、駕籠に近付いて嘆願書を差し出したところ、受理された。しかし後藤は供の者に捕らわれて牧野家に連行された。他は何食わぬ顔でその場を去り、番町の斎藤宅に引き揚げた。

御側用人(おそばようにん)(将軍の秘書長ともいうべき職)松平筑後守を目標とした二名のうちの黒沢魁介(郷医)が差し出した嘆願書も、受理されたが、彼も松平家に連行された。賞三は同志一名と共に、大目付(老中の耳目となって大名などを監察した)桜井荘兵衛の屋敷に赴いた処、家臣が応対して大目付は登城して不在と言い、嘆願書は受理されなかった。このため賞三は捕らわれることなく、斎藤宅に引き揚げた。

当時駕籠訴の訴人は、訴状と共に、その藩主に引き渡されることになっていた。既に水戸藩は、反斉昭の門閥派が藩政の実権を握っていたから、連行された後藤・黒沢の両名は、水戸藩に引き渡され、取り調べの上、投獄されたに相違ない。同志の一人田尻新介(庄屋、山横目)は、駕籠訴の現場を何事もなく去ったが、翌弘化2年1月、雪冤運動を理由に藩当局に捕らわれ、水戸で投獄された(尤も翌3年に赦免)記録が残っている(「水戸市史」中巻(四))。その他の同志達も、芋蔓式に逮捕されたとみて間違いなかろう。

筆者の手許に、賞三の嗣子甕(みか)の長女平川梅子の自分史「女の一生」(昭和34年、ガリ版刷り、84頁)というのがあり、賞三の手記など引用しながら、かなり詳しく祖父母のことに触れている。これによると賞三は「閣老(老中)に訴訟して繋獄せられしが脱走」とその手記に書き残している。これは前述の駕籠訴のことに相違なく、賞三も田尻等同様に水戸の獄舎につながれた。しかし賞三は、獄からの脱走に成功した。

斉昭雪冤運動の主要な参加者は、士民共に捕らわれて、江戸駒込又は水戸赤沼の牢獄に送られたが、身分ある藩士の場合にも、その取り扱いは盗賊にも等しく、まして義民の場合には拷問にかけるなど獄死する者もあったという。賞三がどのようにして脱獄したかは分らないが、後の彼の見事な諜報活動振りからして、それは彼にとり、さして困難なことではなかったであろう。

 

(註7) 桜任蔵は常陸国真壁郡真壁の医者小松崎玄達の子。文化9年(1812)生まれ。名は真金。別名村越芳太郎などと称した。性格は、いわゆる@儻不羈(てきとうふき)(才能がすぐれ、ものごとに束縛されぬこと)、家業を継ぐことに甘んぜず、若くして藤田東湖に師事し、また水戸の郷士宮本茶山の塾に学んだ。天保8年(1837)頃江戸に遊学、多くの知己をえた。幕臣川路聖謨に認められ、幕府に仕え普請方物書役となる。徳川斉昭の政治的復活運動に協力するため職を退き、老中阿部伊勢守の傍臣石川和助を通じ幕府の要路に斉昭復権を働きかけた。後に尊攘志士として西郷隆盛、吉田松陰をはじめ、多くの志士と往来した。安政大獄の後、関西での活動を志して大阪に至り、佐久良東雄と結んで志士の交流をはかったが、安政6年大阪で病没した。享年48才。なお桜任蔵は、今後本稿にしばしば登場する人物である。

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最終更新日: 03/05/04