安政大獄と賞三

 

加藤木賞三が、藩士に取り立てられた安政2年 (1855)以降の水戸藩は、文字通りの混乱と、対立する門閥・改革両派の憎悪剥き出しの時代に入った。安政2年(1855)10月の江戸大地震は、「水戸の両田」と呼ばれた藤田東湖と戸田忠敝を圧死させ、斉昭は自らの両腕というべき補佐の重臣を失った。その結果、外に対しては斉昭と幕府の関係がますます悪化し、内においては改革・門閥両派の破局的対立を招いた。安政5年(1858)7月幕府から斉昭は急度慎み、藩主慶篤が登城禁止の処罰をうけたことは、前項に書いたが、8月8日には勅諚(戌午の密勅)が水戸藩に下された。その内容は、米国はじめ英・露・蘭との修好通商条約調印を批判し、水戸・尾張両藩主らの処分の影響を心配し、幕府は徳川三家以下諸大名と群議して、国内治平、公武合体、内を整えて外国の侮りを受けぬ方策をたてるようにというのであった。この勅諚は、幕府にも下されたが、水戸藩に対しては、徳川三家はじめ列藩にも伝達するようにとの添書がついていた。朝廷から、政治的な勅諚が幕府抜きに、直接藩に下されることは、前例がない。幕府は水戸藩に勅諚返納を命じたが、藩内の改革派特にその激派は、飽く迄もこれに反対した。他方京都では勅諚降下に反対した親幕府の関白九篠尚忠が辞任に追込まれた。しかも以上のような事態には、広く深く公卿・尊攘志士等が関わっていることを知った大老井伊は幕府の危機と考え、安政5年(1858)9月頃より翌6年年末にかけて、いわゆる安政の大獄を強行した。連座した者は、公卿・大名・志士など合せて百余名に及び、過酷な井伊の裁断により福井藩士橋本左内・長州藩士吉田松陰・儒者頼三樹三郎らが死罪となり、小浜藩士梅田雲浜が獄死したことは、広く知られている。しかし大獄は水戸藩に対し、特に厳しかった。安政6年 (1859)8月、家老安島帯刀には切腹、奥石筆頭取茅根(かやのね)伊予之介・京都留守居鵜飼吉左衛門には死罪、吉左衛門の子息で勅諚を京都から江戸に運んだ幸吉に獄門、勘定奉行鮎澤伊太夫に遠島を、それぞれ申し渡した。しかも幕府はこの月、老公斉昭に国許(くにもと)蟄居(斉昭は翌万延元年8月、井伊大老の暗殺より約五ヶ月後、水戸にて病没した)、藩主慶篤に差控え(登城禁止、謹慎)、更に一橋慶喜も隠居・謹慎に処した。ところで加藤木賞三も大獄との関連で処罰を受けた。このことにつき、加藤木直氏の記録(第一項の註参照)は、安政6年(1859)10月29日に、江戸の和田倉門外竜の口にあった評定所(幕府の最高裁判所)で、同じ水戸藩士の山国喜八郎(武具奉行格目付、軍用掛兼務、後に天狗党に加わり敦賀にて斬首)・海保帆平(剣客で浪士を引き連れ井伊家に斬り込むとの風説が流れた)両名と共に、「永押込」に処せられたとする。しかし賞三本人は「11月に至り、公辺(幕府)の内命を以て蟄居、役召し放され(役を取り上げられ)、下国の厳命あり、よって家族5人を引具し帰省、新荘の御用屋敷に幽居することすべて4年」と、日記に書き残している(平川梅子「女の一生」による)。筆者は本人の日記を重視し、賞三は特定の罪状を指摘して評定所により直接処罰されたのではなく、いわゆる危険人物として、幕府が水戸藩にその処分を「内命」したのだと考える。家族を引き連れて水戸に帰ったのであるから、犯罪人として護送されたのではない。なお翌万延元年(1860)12月現在の「水戸藩御規式帳」(「職員録」のようなもの)には「平小普請」(小普請は無役のこと)のグループに、加藤木、山国、海保の名があり、賞三は「遠慮」、他の両名は「蟄居」の処罰中であることが示されている。「蟄居」は外出禁止はもちろん、一室に籠もることを命じたが、「遠慮」の方はそれより軽く、門を閉じて引き籠もるものの夜間潜戸(くぐりど)からの外出は認められていたようである。賞三一家の「遠慮」の生活は、後述するように文久2年(1862)まで続いたが、この時の生活について「青竹の矢来(やらい)(青竹をあらく編んだ囲い)にかこまれ、用足しには裏口からこっそり出入りしたものだそうです。その時の生活はよくよくつらかったと見え、「父(賞三の嗣子)もよく当時の思い出話をしました」と孫の平川梅子が書いている。ところで賞三は、家族5名を引き連れて江戸から水戸に帰ったが、5名の内訳はどのようになっていたのか。安政4年5月に死去した妻なつの遺児は、男児2名と生れたばかりの女児1名であった。実はなつの存命中、加藤木家は姪の大野もと子(賞三自身の兄姉に大野姓の者は見当らない)を見習奉公ということで預った。なつの死後もと子(茂登子)が後妻におさまり、水戸に帰る時には、既に女児1名をもうけていた。従って家族5名を引具というのは、勘定があう。なおもと子は、水戸の「遠慮」生活中、女児2名を産み、上の子は幼児の時死んだが、文久2年生まれの5女直(後に直子)は成長した。もと子は「もともと学問こそなけれ、なかなかのえら者で、頭は利く、口も八丁、手も八丁」であった。維新後賞三が茨城県に勤め農業関係の仕事をするようになると、養蚕技手を志望し、県下各地を回って指導した。40を過ぎて手習いをはじめ、60を過ぎて茶道を稽古し、茶道の指南もしたという(平川梅子「女の一生」による)。万延元年(1860)3月、井伊大老が桜田門外で暗殺された後、幕府は大獄の際に処罰した大名・公卿等の謹慎・蟄居などを解き、文久2年(1862)8月には、水戸藩に対し、安政5年(1858)8月の戌午の密勅降下以降に処罰されたものを赦免させた。賞三も自由の身となり、旧職の「勝手方勤め」に復した。しかし元治元年(1864)3月、天狗党の乱が起った。これより前、戌午の密勅をめぐる意見の対立で、かつて藤田東湖に率いられた改革派は「鎮派」と「激派」に分裂し、穏健な前者に対し、後者は急進的な尊攘派となり、桜田門外の事変も天狗党の乱も、この派の人物が中心的役割を果した。このような情勢の中で賞三は鎮派に属し、藤田東湖の2名の妹の夫である久木直次郎及び桑原信毅らと行動を共にした。他方、市川三左衛門の率いる門閥派は、多数の弘道館諸生(学生のこと)を激派追討の先鋒に加え、幕府派遣の鎮圧軍と協力して、天狗党勢の駆逐と、元治元年(1864)8月より10月にわたった「那珂湊の戦い」に勝利した。以後門閥派はその勢力を強めて思うままに藩政を左右し、慶応元年(1865)に入ると残存する激派の人物や鎮派の人々をも、みだりに処罰し、更には一度に17名を死罪にするなど「濫刑を事とした」(「水戸藩史料」)。流石に幕府も、門閥派当局に対し、以後死刑は幕府に伺い済みの上でなければ相成らずと申し渡したほか、幕府に「水戸藩政改革掛」を設けるなど圧力を加えた。これに対し門閥派は飽く迄抵抗し、一方鎮派の有志は慶応2年6月藩政の現状を憂え、幕府の要路に嘆訴する密計を立てたが、嘆願書が江戸への途中奪われて、企みは門閥派の知るところとなった。このため鎮派有志のうち、桑原力太郎(信毅の嗣子)のほか1名は捕らわれて禁固となり、加藤木賞三、豊田小太郎(彰考館総裁豊田天巧の嗣子)渡井量蔵らは水戸を脱走した(「水戸藩史料」)。賞三はまたまた江戸に潜入し、渡井と共に、幕府に対する工作を続けたようであるが、その具体的行動を知る史料が見当らない。

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最終更新日: 03/07/21