11 茨城県属としての 賞三

 

加藤木賞三は家族を伴い、明治6年(1873)水戸に帰ったが、ここでも士族授産のための荒れ地開墾事業が始められていた。

この授産計画は、明治4年(1871)3月より準備が進められ(「水戸市史」中巻(五))、同年7月の廃藩置県後も、茨城県が継承した。明治6年には計画が実現し、旧水戸藩士族435名が「開墾義社」を組織した。県は、茨城・那珂・久慈三郡の荒れ地を官有化して、茶・桑栽培のため、「義社」に貸与したが、翌7年一人当り桑園用として7反(たん)5畝(せ)(一反は991.7平方メートル、一畝はその10分の1)、茶園用として5反が割り当てられた。

その上に、開墾料、桑苗・茶実の買い入れ資金2万1912円余が、無利子10ヶ年賦という条件で、一括して義社に貸し付けられた。手厚い援助にかゝわらず、この事業は結局成功をみるに至らなかったが(註25)、このような士族授産の計画が、東京の賞三の耳に入り、水戸への帰心をそそる一因となったのかも知れない。

故郷に帰った賞三は、茨城県に奉職したが、何年何月からのことか、またどのような仕事を担当したのか判らない。賞三は日誌を書き残していたが、昭和20年 (1945)8月の水戸空襲のため、加藤木家の総ての古い文書類は、焼失してしまった。しかし一説によると、賞三は「夙に殖産に志し、明治7年頃茨城県少属たり」とある(大植四郎「明治過去帳」−物故人名辞典)。少属とは県の役人の身分で、「判任官」(註26)に属した。

明治8年9月現在の茨城県庁官員録によると、奏任官2名(出身県―鹿児島及び浜松)判任官は122名、うち茨城県出身は42名に過ぎなかった(瀬谷義彦「茨城県成立史」)。賞三が水戸に帰った翌年、60歳の当時としては老齢で、少属の身分ながら、県庁に奉職できたとすれば、多数の旧水戸藩士族の救済が必要とされた時期において、まずまずの境遇であったと言えよう。静岡藩(県)及び大蔵省勧農寮勤務の経歴が、ものを言ったのであろう。

賞三の茨城県属としての職歴は、明治9年以降については、概略判っている。左は水戸の郷土史家森田美比氏が、筆者のため、国立公文書館所蔵の内閣文庫「茨城県史料」及び「茨城県日誌」(明治14年)から、拾いあげられたものである。

 

明治9年7月11日 勧業係兼牧畜並會社係

明治9年7月28日 博覧會御用取扱ヲ命ズ

明治9年11月4日 博覧會御用取扱ヲ免ズ

明治10年1月17日 任八等属、物産係兼戸籍係

明治10年10月24日 任九等属

明治11年12月27日 職務勉励ヲ以テ金拾伍円ヲ下賜ス

明治12年6月6日 多賀・久慈・那珂三郡貯穀取調担当

明治13年10月14日 備荒貯蓄係兼務

明治13年12月27日 依頼免本官

明治14年2月2日 蓄穀残務取扱申付候事

 

明治8年全国的な県の統廃合が行われ、茨城県は5月周辺の地域を併合して、ほゞ今日の県域ができあがった。明治7年5月改正の茨城県職制には、租税課に開産係があり、係の担当業務には「會社取扱、牧場ノ取扱、物産及ビ開墾樹芸ノ事務」などが含まれた(前掲「茨城県成立史」)。8年末には行政地域の拡大した県の組織として、開産係を勧業課に昇格し、また勧業試験場(註27)を設置し、勧業政策に一層力が入れられた。明治9年7月任命の賞三の職務は、このような背景を持っていた。

しかしこの年7月28日から11月4日まで賞三は博覧會御用取扱いとなった。この博覧會は、明治政府が国内産業と貿易の発展のため、翌10年8月21日から11月30日迄、東京上野公園で開催した「第一回内国勧業博覧會」のことであった(出品点数84,353、来観者数454,168人―国史大辞典による)。茨城県は県民に出品を勧誘したから、賞三は恐らくこの勧誘関係の仕事を担当したのであろう。

ところが明治10年1月の辞令では、勧業関係の物産係の外に、どうしたわけか戸籍係を兼務した。そしてこの時「八等属」となっているが、これは判任官(属)として最上位の身分であった。ところが同じ年に九等に格下げされた。何故か不明であるが、翌11年年末に職務勉励を賞して15円貰っているから、職務上失態があったわけでもなかろう。

明治12年6月に、賞三は、県北部三郡の貯穀取り調べを担当、8月には八等の身分に復帰した。この頃の茨城県令は、旧水戸藩徳川斉昭が、天保改革に際して再建した備荒貯穀制度(稗倉(ひえぐら)と常平倉―本稿その2参照)の復興を企図したようである(森田美比「茨城県政と歴代知事」による)。天保7年の大凶作に際し、加藤木家が自家の貯穀を率先放出して、窮民を救ったことは、本稿その2に書いた。廃藩置県後、県の制度として備荒貯穀は行われなかったが、旧藩時代の貯穀が維持されていた地域があったのであろう。

しかし中央政府は、明治13年6月、備荒儲(ちょ)(貯)蓄法を布告、翌14年1月1日施行した。この法律は、非常の凶作や不慮の災害による窮民に、食料・小屋掛料・農具料・種穀(穀物の種子)料を与え、また罹災のため地租(当時重要な国税)を収められない土地所有者に、その税額を補助又は貸与した。その財源は、各府県の土地所有者から地租に応じて、各府県會の議決した率で徴収する公儲(貯)金と、政府支出の補助金であった。

しかし主要な財源は前者であり、事実上地租の追加となり、農民はじめ土地所有者に、新たな負担を強いることとなった。このため全国多くの府県會の反撥を買い、茨城県でも明治13年の臨時県會で、強い抵抗をうけた。

賞三は明治13年10月、この法律の施行に備えた備荒貯蓄係の兼務を命ぜられたが、恐らく農民の負担を加重する仕事を嫌ったのであろう、この年12月末には、願により本官を免ぜられて退職した。時に66歳であった。

しかし翌14年2月、賞三は県から蓄穀残務取扱いを申し付けられたが、嘱託のような格好での勤務であったとみてよかろう。この仕事は、さきの備荒貯蓄法関係ではなく、明治12年に賞三が取り調べを命ぜられた旧水戸藩以来の備荒貯穀に関するものに相違ない。大内地山編「常総古今の学と術と人」には、その事を裏書する記述があり、大意は次の通りである。

廃藩置県後、残存貯穀の所有権が、官民何れに所属するか不明であったため、県もその処分に苦しんだが、賞三に調べさせたところ、綿密な調査の結果、民有であることが明らかとなり関係町村に分配された。

 

(註25) 士族授産事業としての開墾は、一般に成功例に乏しく、茨城県の開墾義社の場合も、明治16年ごろまでには、大部分が失敗に終り、県はその収拾策に苦慮した。失敗の原因は士族が力仕事に堪えず、自ら開墾地に乗り込んで耕地を切り開き農耕に従事する者は僅かに一割程度に過ぎなかったからであるという(「茨城県農業史」第一巻及び木戸田四郎「茨城の歴史と民衆」による)。

(註26) 判任官にも段階があり、少属はその中程。

(註27) 明治9年1月茨城郡常磐村に勧農試験場を創設し、乳牛・果樹の試験と展示を行った。

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最終更新日: 03/05/04