松浦武四郎の 人類愛

 

安政3年(1856)2月、武四郎は赴任のため江戸を出発、3月初旬箱館に到着した。この時徳川斉昭より餞別五両を頂いた。早速4月からは、幕府直轄となった地域を巡察した向山源太夫に随行、北海道西海岸地域、樺太(シスカまで)、北海道東海岸地域を経て、10月中旬箱館に帰った。途中向山は樺太で病み、宗谷まで引き返したが、同地で8月病没した。武四郎も箱館に帰った後、11月に大病にかゝり、翌安政4年1月漸く快方に向った。この年40歳となった武四郎は、4月石狩地方の山川地理取り調べ(新道建設のための調査を含む)の命をうけ、西海岸地域の奥地に分け入り、8月箱館に帰った。更に積雪中の東海岸地域の地理取り調べを命ぜられ、翌安政5年(1858)1月下旬出発、釧路・根室・知床・網走を経て宗谷に北上の後、南下して8月下旬調査行を終った。以上幕府御雇として三回の踏査を行った武四郎は、数々の報告書を提出し、またその体験は後に彼の多数の著述を生んだが、中でも「東西蝦夷山川地理取調図」は貴重であった。それは彼が、石狩川・天塩川・十勝川など主要な河川の上流を極め、また高山を越えて、北海道内陸部を踏破した結果判った河川の状況や山岳の位置などを図示し、また多くの地名を記入した地図であった(註18)。北海道の地図は、それ迄に伊能忠敬(1745−1818)、その門弟間宮林蔵(1780−1844)らの測量により、海岸線はほゞ正確になっていたが、内陸部の状況を詳しく図示したのは、武四郎の功績であり、この取調図は木版刷りで出版された。しかし報告文書である「丁巳(ていし)(安政4年)東西蝦夷山川地理取調日誌」24巻と「戌午(安政5年)東西蝦夷山川地理取調日誌」61巻は、刊行を許されなかった。それは、これらの日誌が地理に止らず、場所請負制(本稿その7参照)の弊害と、アイヌ民族に対する苛酷な取り扱いを暴露し、北辺防備とアイヌ救済の急を訴えたからであった。武四郎の著述のうち、出版不許可となったのは、更に「近世蝦夷人物誌」がある。これはアイヌ語を解した武四郎が、直接接触した28人の人物の徳行・奇行・不遇などを詳細に紹介したものである。和人がアイヌ民族に加えた非道、暴力を暴露し、特に出稼ぎに出た男の留守をうかがい、その妻に対し暴行姦淫をほしいままにする実情を、怒りをこめて書いた。箱館奉行所は、その情報を貴重としつつも、書物として公刊を認めず、武四郎の出版願いを却下した(註19)。この著述が活字となったのは、武四郎の死後24年を経過した明治45年(1912)のことであった。武四郎はきわめて強い人道的精神の持ち主で、和人の漁場の番人に慰みものにされ、梅毒をうつされて廃人となり、山奥へ捨てられたアイヌの女性を、石狩川を舟で8日もかかって訪ねて行った。作家司馬遼太郎は「街道をゆくーオホーツク街道」(「週刊朝日」1992年12月18日号)において「雑木林を見ながら、松浦武四郎のことをおもった。その日記や紀行文のたぐいも持ってきた。武四郎が愛した山川草木のなかでその文章をよむと、自分がアイヌになって、武四郎と話しているような気になる。(中略)武四郎は北海道を愛し、アイヌと兄弟のようになった」と述べ、19世紀のヨーロッパでは、一方において異民族に対する弾圧が行われると同時に、キリスト教的な愛にもとづく、はげしい人類愛も生れたが、同じ時代の松浦武四郎は「キリスト教によらざる人類愛の人だった」と強調している。武四郎は、最後の蝦夷地踏破の旅を終えた安政5年(1858)10月箱館を出発、翌年の正月は江戸で迎えた。この年9月42歳の武四郎は、家庭を持つ心境となり、晩婚ながら妻帯し、後に娘二人を儲けた。更に同年12月には、健康状態を理由とする御雇御免願いが聞き入れられた。もともと武四郎は自由人であり、窮屈な役人生活には馴染まない。その上に、時の大老井伊直弼が、蝦夷地幕府直轄の方針を転換し、東北諸藩による分割経営、彦根藩御用商人に対する利権供与などの政策を採用しようとしたことも、武四郎の嫌気を招いたようである。再び一介の処士に戻った武四郎は、その後北辺踏破によって得た数々の記録を、世に紹介する執筆生活を送り、彼の著書が次々に出版されて世人の注目する処となった。また加藤木賞三と交遊の機会にも恵まれ、例えば文久3年(1863)には、2月と4月に各一回、賞三が来訪し、4月の場合は一泊したこと、5月常陸方面に旅した時は、水戸の賞三宅を訪ねたこと、そして翌元治元年3月には、賞三が三男の一雄を同道して来たことを、武四郎が記録している。一雄は予ての約束に従い、この時より武四郎の養嗣子となったが、養父の友人に彫刻を学び、後に大阪造幣局に奉職した。慶応4年(1868―この年9月明治と改元)4月、既に51歳の武四郎は、維新政府から京都に召し出され、箱館府判事(註20)を命ぜられた。幕府の蝦夷地御雇を辞してから、市井にあること9年、再び官途に就いた武四郎は、多くの著書及び地図を政府に献納した。これに対し、政府は5月「蝦夷地方の儀につき、多年苦心、自著の書物並に図等、献上致し、かつ大政更新の折柄、奔走尽力候段(嘉永6年の京都における活躍をさす)神妙の至りと思し召され候これより金一万五千疋これを賜り候事」と賞された。明治元年10月、榎本武揚の率いる旧幕府軍の北海道占領から、翌2年5月の全面降伏に至る間、明治政府の箱館府は機能を停止した。このため武四郎は、東京都府知事附属を命ぜられ、江戸が東京に変った、その転換に伴う仕事をしていたが、明治2年2月に辞職した。北海道を開放した明治政府は、「蝦夷地は皇国の北門」との認識のもとに、箱館府(明治2年9月、箱館は函館となる)にかえて、明治2年7月太政官直属で各省と同格の「開拓使」を置き、初代長官には名君の誇れ高かった元佐賀藩主鍋島閑叟が短期間ながら就任した。開拓次官には元箱館府総督清水谷公考、次官に次ぐ開拓判官には武四郎の外に、札幌建設の先覚者島義勇、後の初代北海道長官岩村通俊等が任ぜられた。なお開拓使方は、最初芝の増上寺に位置し、箱館にその支庁を設けた。開拓使は、設立間もない、明治2年8月15日、蝦夷地の呼称を「北海道」とすることを決定した。この新しい呼称に松浦武四郎の原案(日高見道(ひだかみどう)・北加伊(ほくかい)道・海北道などをあげ、そのうち北海伊については「夷人自らその国を呼んで加伊と言う」と説明した)から、北加伊道をえらび、「加伊」を「海」に置き換えたのであった。尤も武四郎自身は既に「北海道人」をその雅号の一つとしていた。また「カラフト」についても、唐太・柯太・加良不止等々の文字が使われていたが、カラフトには樺の大樹が多いから「樺太(からふと)」と書くがよかろうとの武四郎の主張が通った。なお北海道内の国名・郡名決定についても、武四郎の独壇場で、同年9月に、「北海道道名・国名・郡名撰定ノ御手当」として金百円を賜った。しかし翌明治3年2月、武四郎は開拓判官の辞表を提出した。鍋島閑叟に替った公卿出身の二代目長官久世道祷(みちとみ)の島義勇や武四郎ら疎外のやり方に対する憤慨もあったようだが、後年彼がしばしば口にした「官に仕えることは、まことに窮屈」で、武四郎の性格にあわない。しかもこの頃、既に将来の生計について、見込みを立てていたのであろう。明治3年(1870)3月、辞職願いは聞き容れられ、同時に「先年来、北海殊方(しゅほう)(ちがった場所)の地へ跋渉、山川の形勢を探り、土地の物産を索(もと)め、著述多きに居り、奇特の事に候方今開拓に付ては、補益少なからず、よってその功を賞せられ、終身15人扶持を下賜候事」との辞令をもらった。時に武四郎53歳であった。尤も明治もごく初年のこのような辞令が、何時迄有効だったかは判らない。明治6年武四郎は、東京の神田五軒町の敷地600坪に新邸を建てたが、著書の自費出版のほか、骨董の周旋・売買を行い、また自邸の一部では、北海道の現地から取り寄せた鰊・鮭・昆布を商うなど理財の道にもたけていた。しかし遊歴の心を失わず、明治7年頃から再び旅に出て、京都・近畿方面を歩き、12年には、妻を同伴、伊勢・京都・吉野を訪ねた。明治16年(1883)66歳の時には、遠く九州まで足を伸ばし、70歳にして全国30カ国を遍歴し、富士山にも登ったが、翌明治21年(1888)2月、卒中のため自宅で死去した。享年71歳、墓は東京の染井墓地、遺言により、晩年3回も登山して、気に入り心ひかれていた大和の大台ケ原山の名古屋谷に分骨した(註21)。

 

(註18) この「地理取調図」は、28冊の切絵図からなり、うち26冊をつなぎ合せると北海道の全図となった。なお、武四郎は、小さな羅針盤を一つ携行するに過ぎず、測地をする場合は、高い所に立って目測するか、或はみずから歩いて実測したという。(註19) 松浦武四郎の蝦夷地関係著作で世に出版されたのは、既に紹介したものの外に「石狩日誌」「知床日誌」「夕張日誌」「十勝日誌」「久摺日誌」「後方羊蹄日誌」「天塩日誌」「東蝦夷日誌」(8冊)「西蝦夷日誌」(6冊)「北蝦夷日誌」「蝦夷年代記」などがある。(註20) 明治維新政府は、清水谷公考を総督とする「箱館府」を、慶応4年(9月に明治と改元)5月1日、箱館の五稜郭の旧箱館奉行所庁舎に開設した。(註21) 本稿は、吉田武三「松浦武四郎」「定本松浦武四郎」北海道新聞「北海道大辞典」榎本守惠・君尹彦「北海道の歴史」等を参考とした。

 

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最終更新日: 03/05/04