12 晩年の賞三

 

明治15年68歳の賞三は病床にふし、同年12月26日附で茨城県庁より完全に退いた。嗣子の(みか)が入れ替わりの格好で、県属となり、後に郡書記を勤め、県内の郡を転々とした。

賞三の長男信夫は早く須永家を継ぎ、三男一雄は松浦武四郎の養嗣子となり、次男の甕が独り残って加藤木を相続した。甕は嘉永5年(1852)生まれ、早く洋学を志したが、水戸の攘夷派に殺してしまえと拉致され、危いところを逃れたこともあったという。明治6年(1873)22歳の時、上京して「郵便伝習生」となった。

飛脚に替わる近代的郵便制度が、前島密(本稿その10参照)により立案され、郵便がほゞ全国に行き渡ったのは、明治5年のことであった。この年には郵便伝習生の養成が始められ、伝習生には一ヶ月7円を支給し、主として英語を学習させた(山口修編「郵便百科年表」)。前島が郵便業務の国際性を見通して、英語教育に重点を置いたのであろう。

甕は伝習生卒業後、横浜、神戸郵便局に勤務、明治8年には上海郵便局の設置について、前島密は「明治8年の10月、私は清国に渡航した(中略)。清国はただ通信の事に無頓着なばかりでなく、通信上国権に関する事すら無感覚であるから、日本が郵便局を上海に設けたり、開港地に郵便取扱所を置いたりするにも、北京政府は勿論、地方庁にすら一応の照会もしないで、随意に開設する訳であった」と述懐している(前島密「鴻爪痕―郵便創業談」)。

甕は、上海では16歳の新妻と暮したが、明治10年長崎郵便局長に就任した。開港場の一等郵便局で、外国船が入港すると、夜中でも勤務しなければならなかった。また甕の転勤前の長崎局では、何か問題が起っていたようで、朝は早くから客がつめかける、晩には毎晩のように酒盛りが始まり、年若い主婦にはその応対ができず、芸者を一人常雇いにしていたという、今では考えられない郵便局長の生活振りであった。処が、明治15年水戸の父賞三が病気で寝込んだという知らせが来ると、甕は親孝行の一念で、辞職までしなくてもとの忠告も耳に入らず、あっさり職を退いて水戸に帰った(前掲の平川梅子「女の一生」及び村山茂「藻塩草」による)。

この頃の賞三は、妻もと子(写真)と末娘との三人暮しであった。五女直子は、既に水戸の師範学校を卒業し、明治13年5月、この月に工部大学校を卒業した工学士桑原政(藤田東湖の甥、水戸藩士桑原信毅の次男)と結婚していた。

未だ両親の手元にいた末娘の末子(明治7年生れ)は、後に栃木県出身の安生(あんじょう)慶三郎と結婚した。安生は渡米して苦学の末、ブリキに印刷する技術を学び、東京月島に工場を建て、サイダーやビールびんの王冠製造事業に成功して財をなした。 すでに96歳の生涯を終えた作家芹沢光治良の大河小説「人間の運命」第二巻に登場する高場夫人のモデルは末子である。

長崎で生まれた長男を連れて、水戸に帰った甕夫妻の看護により、賞三の回復は早く、しかもその後は隠居生活を楽しむことなく、活動を続けたようである。大内池山編著の前掲書によると、「職を辞したるも尚ほ宿志を廃せず、栽桑養蚕を精励して以て大にこれを奨励」したと言う。死の前年の明治25年5月、賞三は藍授褒章を授与された。その善行表彰の理由は、天保飢饉の際の、貯穀の放出による窮民救済のほか「桑苗を頒(わか)ち、飼育法(蚕)を授けて産業を増進する等公衆の利益を起し成績著明なる者」というのであった(註28)。

ところで、このような活動を、賞三は何処で行ったのであろうか。士族授産のため東茨城郡常磐村(現水戸市)に開墾地四百余町歩をえて、「経理(会計)の方法を立ててこれに桑を植え、養蚕を習はしめ、或は尊徳翁(二宮)の教えを守って郷人に殖産興業の道を教」えたとの説(講談社「大日本人名辞書」但し「明治忠孝節義伝」より引用)もあるが、常磐村での事業を確認できる史料が見当らない。本稿でも引用した「水戸市史」は、既に上巻、中巻(5冊)が発行され、目下下巻(明治時代以降)の編纂中である。この下巻が発刊されれば、或は賞三の活動、少くともその背景につき、何等かの情報が得られるかも知れない。

明治21年74歳の賞三は、二宮尊徳との関わりを追憶した一文を書いたが、その前半については、前章で紹介した。それは嘉永6年(1853)日光東照宮神領の農村復興を、幕府から命ぜられた二宮尊徳に、いったんは随行を決意しながら、ペリー艦隊来航のため賞三が断念し、尊徳の了承を得たところ迄であった。

この時二宮尊徳は、賞三に対し大要次の通りに説いた。国家の一大事に際し、余儀ないことではあるが、既に懇意となった貴殿に、この際私の考えを率直に申したい。貴殿が水戸藩にて、どのような身分かは詳しく知らないが、その職務が貴藩の進退を左右するほどのものではあるまい。世の成り行きは、誰がどう思っても、勢の赴く処に落着するもので、藩の家老職とても思うようにはならない。私は幕府の小吏に過ぎないが、現在の任務に専念して他事を顧みず、事業を成功させたいの一念である。尤も国防のため馳せ参じよとの命があれば、開墾の仕事を放棄して、それに従うが、そのようなことはありえない。あの天下分け目の関ケ原の戦いに際しても、検地(田畑を測量して、面積・境界・石高(こくだか)等を検査すること)に従事していた武士は、その儘仕事を続けていたという。現在のように、誰も彼もが、戦いにかゝわったのではない。

賞三は以上の尊徳の心添えを想起して、大要次の通り述べている。当時自分は、未だ40歳前で思慮も浅く、先生の懇切なお話も肝に銘じることなく「事あらば今にも出陣して醜慮(外国人を卑しめていう語)を鏖殺(おうさつ)(みな殺し)せん等の空言」を唱えた。しかし年を経るに従って尊徳先生の見識・才能・力量の偉大さを深く感じ、あの時「先生の意見に従ひ候て事業に勉励するに年あらば、如何に不肖の我等(自分)にしても、その器量だけには得るところもあり、いささか邦家へ利益を施す事もあるべきものをと、昔年を顧みて慙愧後悔すること毎々なり」と言い「なにひとつ世になすこともななそじに、あまるよはひと老い朽ちにけり」との一首を書き添えた。

賞三が明治維新後に歩んだ道、特に県庁退職後、いよいよ老境に入りながら、なお勧農のための活動を続けたのは、二宮尊徳の影響によるところ少なからずとみてよかろう。

賞三が既に完全な隠居生活に入っていた明治25年には、息子の甕が、東茨城郡書記に就任し、水戸に帰って、再び老父母と同じ屋敷内に住み孝養をつくした。甕の帰宅がおそいと、賞三は「甕はまだか」と聞きに来る。毎晩二人で晩酌をするが、それがまた長い。しまいには十時過ぎになったという(甕の長女平川梅子「女の一生」)。

孝行息子相手の楽しい晩酌も、そう長くは続かなかった。先ず賞三の妻が流感で寝込み、ついで賞三が枕をならべ、更に一家中に移った。甕は40度の高熱の身で、杖にすがりながら両親を見舞った。ある日賞三は見舞いの客に「私はもうすっかりよくなりました。明日は清々して起きられましょう」と言ったものの、遂に再び起つこと能はず、明治27年4月18日、その生涯を終えた。享年78歳、水戸市の神応寺に葬られた 。 戒名 孝友院公益種善清居士。

 

加藤木賞三(o叟)の墓    水戸神応寺

平成15年(2003)7月20日撮影

水戸藤澤山神応寺(時宗。 水戸市元山町1-2-64。 本山は神奈川県藤沢市の遊行寺)にある加藤木家の墓はo叟が生前に 死後も水戸様にお仕えするという気持ちで 常盤神社の背後の寺を選び、墓も斉昭公の常盤神社の方に向けて建墓したという。 また 「俺はどんな立派な墓でも建てることができるが 三代目、四代目になって 雑草の中に倒れているなどということになると嫌だから」 と言って、 墓石を礎石を削り貫いて差込み、高さの低い質素なものにした。  墓地は元来 o叟の墓の左手方向に広かったが 甕が加藤木の未亡人に無償で譲ったという。 しかしその部分も戦後に寺が他の方に売却し 現在その部分は 葉山氏および曾孫博の家の墓地となっている。

 

 

(註28) 「茨城県治概要」大正4年―森田美比氏調査

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最終更新日: 03/07/21