付記

 

賞三の孫の加藤木常男が 賞三について子の精一に語っているのでそれを以下に記す。

- o叟は 尊皇派ではあったが、時代の先見の明があったと思われる。 大日本史→木版→赤筆での校正・注記が綺麗な筆跡でなされていた。 またオランダ語のノートが少なくとも10冊はあった。

- 髷を切った件 - 甕さんがo叟さんの蒲団で寝ていた件

- 住居であった梅香は 「梅巷」 とも称した。

- 水戸藤澤山神応寺(時宗。 水戸市元山町1-2-64。 本山は神奈川県藤沢市の遊行寺)にある加藤木家の墓はo叟が生前に 死後も水戸様にお仕えするという気持ちで 常盤神社の背後の寺を選び、墓も斉昭公の常盤神社の方に向けて建墓したという。 また 「俺はどんな立派な墓でも建てることができるが 三代目、四代目になって 雑草の中に倒れているなどということになると嫌だから」 と言って、 墓石を礎石を削り貫いて差込み、高さの低い質素なものにした。  墓地は元来 o叟の墓の左手方向に広かったが 甕が加藤木の未亡人に無償で譲ったという。 しかしその部分も戦後に寺が他の方に売却し 現在その部分は 葉山氏および精一の弟博の家の墓地となっている。

- 黒沢茂登子:  全隈村 園部家の娘。 天保6−7年(1835−36)生まれ。 o叟より20歳若い。 男子 信夫(須永家を継ぐ)。 女子 せき。 o叟の墓地にある 黒沢氏婦人の墓が同女の墓で、o叟の戸籍に入っていなかったので 加藤木とは書かなかった。同女は 常陸国*村の修験者の娘で 智力、体力に勝れ、小太刀、薙刀などをよくした。 斉昭公が江戸に蟄居のおり、女中として仕え、o叟が、斉昭公毒殺の計画を同女を通じて 斉昭公に言上、事なきを得、後に短刀一振と御染筆の短冊を賜わったという (右写真。 平成15年(2003)6月6日撮影)。

    枝葉こそ風のまにまに動きなめ 操はたえず立てる松かな    斉昭  

 また、密使として江戸、水戸間を往復し、京都にも赴いたことがあるという。 維新後は、実質、o叟の後妻としてその許で余生を送った。 常男の妻 ゆう は精一に このお祖母様に 武家としての礼儀作法、小太刀を仕込まれた とよく話していた。

- 全国でも有名な北辰一刀流の小沢道場の座敷に 当時 o叟の写真が飾られており、曾孫の精一は 小沢さんのお婆さんに「このお屋敷や下の畠は皆、o叟様に頂いたのだ」と云われたことを記憶していた。

- 桜任蔵 - 真全

 

 

 

 

賞三の孫の村山しげるがその著「藻塩草」の中で賞三について触れているのでそれを以下に記す。

五、私の母(註:直子)
母は水戸の師範学校を卒業し曽ては豊田伯母の教え児でありました。母の実家加藤木家は茨城県東茨城郡孫根村の庄屋の出であります。祖父賞三翁幼名亥之吉は加藤木新五郎の次男文化12年乙亥9月18日未の刻生れです。祖父賞三(後にo叟と称す)の日記によると「父上(新五郎)は美男子なれども骨細く形相瘠疲虚弱且気性も素直純善謀略に乏しく、母上は之と異り醜貌にはあらざれども丸顔肩怒り猪首骨太く肉厚く鼻口大きく美貌とは云い難し。其形体恰も大男子に不異、気質も大丈夫にして智略才識ありて豪気大胆千百中稀有なる婦人なり」又別記には「御母上は14才の暮嫁入り来り候処其身体肥満丈け長くして其容貌恰も十六七才とは相見え、父上は優男子にして如何にも可愛らしきお方なり、俗のたとへに申す蚤の夫婦とはかの方の御夫婦の様なるべしと話すを先年聞きしなり。我等は体格形相は父に似て心はまた母に似たりと人々申す事なり其実如何か」とあります。
私の幼い思い出の加藤木の祖父は白い長い髭をはやした身体は相当大きな方と思いました。そして賞三の母上は常に祖父の出生を願われて朝々お精進をされた由で、祖父は毎朝塩断で胡麻に白砂糖加へたものを御飯にかけて食べて居られるのを見ました。そして人の世話をよくされたので世間から加藤木さんの子供達は親ごの陰徳で皆生活に困らぬと云われたそうです。その祖父の女丈夫の母上が嫁に来られた当座のこととか、どういう事情でか田植をする時庄屋のこととて出入近処の者を総動員して花嫁御寮が陣頭指揮をとり一日の内に何町歩という植付を片付け知らぬ顔して舅姑の度胆をぬいたという話が伝わっています。
また加藤木の祖父は孫根村の庄屋の出ながら勤皇の志厚く、水戸藩の士分に取立てられましたが、元治元年(1864年)筑波騒動(天狗党の乱のこと)より明治の初めまで郷里を脱走しました。その不在中母は祖母に伴われて孫根に隠れ住みましたが、此の女庄屋と呼ばれたお祖母さんは、村中はおろか隣村までなり響いて夫婦喧嘩の仲裁までされたそうです。家では時々脱走中の父を調べる為に役人が見廻りに来たそうですが、そのため「お父さん」という言葉は決して云ってはならんと止められていました。でも私の母は中々おませであったらしく時々「お母さん今にお父さんは御帰りになりますよ」とシャアシャアして云い云いした時、お祖母さんは大変ご機嫌で「そうともそうとも子供は正直天に口なし人をして云わしむ」と云われたそうです。母の孫根での思い出は、田川の傍に立って人の網打つを見ているうちに、眼がクラクラまわって川に落ち込み直ぐ救い上げられたとやら。此のお祖母さんお正月三日の夕方、湯より上り水を一杯と所望してグーと呑み、あゝ御馳走御馳走と云うなりそのまゝ極楽往生されました。報らせを聞いて馳せつけた近村の弟が豫て預り置いた葬式金をちゃんと持参されたとか、昔の人のたしなみのよさには頭が下ります。
祖父o叟は明治二年駿府徳川家宗家より士族授産方法の為御雇入、同五年大蔵省勤農寮出仕、翌六年二月相州に預け置きし妻女を引具し帰県、同十五年迄県庁に勤め、同年十二月二十六日退職、翌日倅甕(みか)入替りに県属を拝命。明治七年四月末には娘すゑが生れましたが、子供は妾腹を含め男女八人(私の母は五女)、そのうち兄甕氏の外に須永家を継ぎし伯父と、松浦一雄(松浦武四郎養子)安生家に嫁いだ末子叔母の外は、孫根の方に私の見知らぬ伯母達がおられました。
伯父甕氏は嘉永五年三月十八日生れ、父o叟の国事奔走、謹慎、蟄居の間に育って具さに辛酸を嘗められました。当時水戸人は党争や人々をおとしいれることのみで誠に始末の悪い時代、甕氏は早く洋学に志したというので「そんな奴は殺して仕舞え」と拉致されたことがあったが、身を以て免れ事無きを得ました。それより上京して明治六年には前島密氏の駅逓伝習生となり、島田三郎氏と同学で終生交誼を結んでおられました。明治八年から十年にかけ上海郵便局長として領事代理を務めたりされましたが、上海赴任を前にして雨宮忠平氏の次女ふき子と結婚、当時26才花嫁16才「小さいお嫁さん」と云われました。仲人本多晋氏は幕臣彰義隊の一部将慨世の士でありましたが、大蔵省同勤の故でo叟翁と相識ったようです。本多氏は妻が雨宮家の長女うめ子、そして本多家の長女おせんさんを日本最初の女医にした先覚者で、おせんさんの夫君は有名なる林学博士本多静六氏です。伯母ふき子の父雨宮忠平氏は菲山藩主江川太郎左ェ門の家来だけあって、当時の進歩派断髪廃刀の先駆者で家人を心配させたり、東京の芝から横浜まで徒歩で石油買いに行き洋燈をつけたという方。娘ふき子には英語を学ばせ水戸へ嫁してからも人に頼まれては女子に英語の手ほどきをされました。
加藤木、本多、雨宮という自ら国士をもって任じる三家を結んだその上、祖父o叟は、その三男一雄が未だ胎内にあるうちから養子の約束を伊勢の奇人松浦武四郎と結びました。松浦武四郎は早く幕末の頃蝦夷(北海道)を探検し、地図や紀行文を残した有名な旅行家にて、諸国をあまねく旅行して各地の由緒ある名木や宸簡(天皇の書いた文書)など入手、神田五軒町の邸内には有名なる一畳敷の茶室があり、一木といえども悉く由緒があるものを備えました。
甕氏は明治十年から同十五年まで長崎郵便局長勤務でこゝで長男常男が生れました。其の頃の官吏は毎日の酒宴で、家には常抱えの芸者を置くという豪奢振り、部下から官金費消者を出す始末でした。明治十五年老父に仕える為辞職して帰国、老父の跡を受けて県属となりました。爾後行方郡、久慈郡、東茨城郡の書記をつとめ後百四銀行支配人として晩年に及ばれました。水戸に帰ったのは三十一才の働き盛り、夫人のふき子はやっと二十一才のうら若さでした。老父に奉仕の為とは云いながら未練もあったでしょう。それに上海、長崎あたりで生活した後、水戸の義父母に仕えるには、よくも自己を殺してと頭が下ります。殊に姑は継母に当り有名なる一徹者、そこを隠忍した伯母ふき子さんのえらさ「禅宗坊主」という名を奉って無言堪忍の徳を夫に称えられました。そして東京の雨宮の両親を省(せい)することさえ叶わぬ事十余年に及びました。明治16年4月梅子(平川正寿氏に嫁す)誕生、明治31年10月に生れた次男正三は、母の生家雨宮家を継ぎました。明治34年5月家族一同キリスト教信仰を奉じ、やがて甕氏は水戸禁酒会を組織しその会長となられました。これから生活一変して明治43年6月23日永眠、継母のもと子はおくれて大正3年4月亡くなりました。
私の母は此の時ふき子刀自に対しお棺の前にて両手をついて永年に渉る献身的な奉仕に対して厚く御礼を申し述べました。これだけ隠忍の伯母上にとりても(以下欠落)

「明治大正の水戸を行く」 昭和34年3月25日いばらき新聞社発行   前田香経著(水戸市文化財専門委員)

94頁

梅香にいた退職官吏は吉見だけではなく元筑波郡長小関隆、元東茨城郡長川辺善固、元那珂郡長中村貞幹などの古手官吏が退職するとこの町に住んだ。吉見の東隣りは維新当時から加藤木賞三の屋敷だったが、大正になってその半分をいはらき新聞の江戸周が買って家を建てた。賞三はo叟と号したが、桜田事変の起る前、密かに井伊家へまぎれこみ、様子をさぐって帰った隠密である。彼の書いた文字が東湖流だったので水戸藩のスパイであることが発覚しそうになり危く逃れたとか、その言葉のナマリから水戸人らしいとかぎつけられて脱走したとか、彼についてはいろいろの話が伝えられている。明治11年裡五軒町に設立された水戸第百四銀行は旧藩士達の斡旋によって開業したが、賞三もその設立に尽力している。後に上海の領事をした甕といった人は彼の子であろう。

 

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