水戸藩士賞三の活躍

 

加藤木賞三は、遂に念願かなって水戸藩士に取り立てられた。尤もその正確な年月を示す史料は見当らない。しかし賞三自身は「11カ年振りにて召されて帰り、遂に藩士の栄転をいただき候」(前掲「血涙餘滴」)と述べている。

また別に「孫根を立って11年間、ようやくその手腕と力量が認められて、水戸藩の士列に加わることができた。もちろん下級武士の列で、最初米十石五斗、三人扶持、勤め先は御勘定所の御勝手方であったという。しかし次第に栄進して、最後には江戸詰の与力に登用された」(前掲「桂史紀要」第三号所載加藤木直記述)ともいう。

賞三が郷里孫根を去ったのは、弘化元年(1844)30歳の時であったから、藩士取り立ては、安政2年(1855)41歳であったと考えてよかろう。後述するように、彼はこの年の冬には、江戸の水戸藩上屋敷に家族と共に移り住んだ。

嘉永2年(1849)幕府から藩政参与を許された斉昭は、老中阿部伊勢守の助力もあって、嘉永4年頃から門閥派の抵抗を排しつつ、徐々に権力を回復し、藩当局の人事刷新に乗り出した。同6年(1853)迄に、門閥派のリーダー結城寅寿をはじめ、同派の主要人物は殆んど役職から追われ、主として改革派の人物がこれに替った。賞三の藩士取り立ても藤田東湖はじめ改革派によって、その功績が認められた結果とみてよかろう。

要職から退けられた門閥派は、簡単には諦めず、勢力挽回のため、執拗に隠謀を企てた。特にその参謀格の谷田部藤四郎は、藩主慶篤に斉昭を排し、改革派を退けるよう密かに訴えた。しかし、このことは改革派の知るところとなり、谷田部は身の危険を恐れて、弟と共に安政3年(1856)1月、水戸の屋敷を抜け出て江戸に赴いた後、身を隠してしまった。

この年4月、門閥派の首領結城寅寿に死罪を申し渡した水戸藩当局は、逃走中とは言え、幕府その他に働きかけて隠謀を企てる恐れのある谷田部兄弟逮捕のため、藩士4名を探索方(かた)に任命した。賞三は小人目付(こびとめつけ)(隠密役)としてその選に入った。谷田部は四国方面に向ったとの情報もあったが、行方の判らぬ彼を、賞三は同僚と二人で、東海道筋から四国に向って探索した。

遂にこの年(安政3年)12月、東海道は富士川の渡船場附近で、谷田部兄弟を発見し、土地の代官所の協力によって、抵抗する両名は逮捕され、翌年水戸で処刑された。賞三にとっては、水戸藩士となって最初の手柄とも言えよう。

賞三が安政2年(1855)の冬に、水戸藩小石川上屋敷内の長屋に住居を移したことは既に述べたが、ここでは妻なつのほかに、嘉永5年(1852)生れの嗣子甕(みか)とその弟一雄の四人住いであった。なつは、斉昭から、結婚直後に危険なスパイ役をつとめた上に藩のため奔走する夫の留守を守ったとして、 右のようなお墨付きの和歌を賜った。

 

   枝葉こそ風のまにまに動きなめ

                                   操はたえず立てる松かな

                                                   [なめ]は動くであろうがの意味)

 

 

 

 

ところが、なつは安政4年(1857)5月女児「くに」を産み、産後の肥立ち悪く6月末日死亡、享年31歳であった(戒名 霜松院烈誉後凋清信女)。 賞三は、この妻の死につき夫婦生活僅か7年(なつの隠密時代を含まず)で世を去ったが、藩のため艱難を共にしたことを思い、悲しみに沈むことひとしおであり、今なお忘れることができないと、晩年に書き残している。 なつの一周忌には賞三の友人が集まり 和歌を献歌している。 その際の短冊は現存しているので 興味のある方は ここ を参照されたい。

明くる安政5年(1858)、またまた賞三の出番がきた。しかもこの時は、彦根藩相手の諜報活動という大仕事であった。この年4月、彦根藩主井伊直弼が幕府の大老に就任すると、13代将軍家定の後嗣問題(註8)と日米修好通商条約調印問題(註9)をめぐり、斉昭は井伊と鋭く対立した。同年7月5日、井伊は将軍の命として(翌6日将軍家定死す)、斉昭を「不時登城」(註10)を理由に、江戸駒込の水戸藩屋敷で「急度(きっと)慎み(重謹慎)」に処した。ここでまたまた水戸藩士民による斉昭雪冤運動が盛り上った。

このような情勢のもとに、賞三は江戸の彦根藩上屋敷に隠密を入れる工作にとりかゝった。尤も賞三は、既に水戸藩士であったから、藩の誰か要職の人物の極秘命令によって、行動を起こしたのであろう。彼は自らの甥安島俊次郎(元水戸藩安島某の男、少壮の時医術を学び、ついで藤田東湖の門に入るー大植四郎編「明治過去帳」)を隠密として彦根藩邸に住み込ませるため、予て懇意の三井国蔵夫妻(前項参照)に協力を求めた。国蔵は表面は神職で、内実は金貸しを業とし、彦根藩士の中にも彼から金を借りている者があった。その妻ふくは、桜任蔵の媒酌で国蔵と結ばれたが、下総出身の神職の娘で、なかなかの確り者であった。

賞三の甥俊次郎を、ふくの甥、下野国宇都宮の町医者田波道節の血縁者ということにし、田波秀蔵と名乗らせた。国蔵の手蔓によって、秀蔵を藩邸中屋敷居住、井伊家茶道坊主安藤清海の娘の婿養子とすることに成功したのは、安政5年7月であった。

秀蔵は早速剃髪して安藤秀斎と改名、8月には養父の職をついで、桜田門外の彦根藩屋敷に出仕した。隠密であることの露顕を恐れて殊更に愚鈍をよそおい、叔母のふくが大金持ちで金には不自由しないと、同僚を誘って吉原にも遊んだ。

俊次郎は屋敷の構造や警備状況を調べて密書とした。その密書の運び役には、ふくがあたり、時折り甥に用事があるとして安藤家を訪れ、密書をうけとり、用心に用心を重ねて、それを水戸藩邸に届けた。ところが彦根藩邸の目付役が、俊次郎が愚鈍をよそおい、また水戸訛りのある事などを見抜き、同僚の茶坊主に注意を求めた。このことを耳にした俊次郎は、ますます愚かな振りを演じたが、翌安政6年(1859)2月これ迄と考え、三井国蔵の執り成しで、妻に大金を与えて離婚し、安藤家を去った。

翌万延元年3月、桜田門外で井伊直弼を暗殺した水戸浪士は、俊次郎の情報によって、彦根藩邸の警備が極めて厳重なことを知り、井伊の江戸城登城の途中を待伏せて襲撃する計画を立てたという。

安藤家を去った俊次郎は、梶山秀蔵と改名、横浜にて乾物店を開き、また貸家を持つなど、すっかり商人に成り済まして、井伊家の追跡を避けた。桜田門外の事変後は稍警戒を緩めて、水戸人とも往来し、漸く文久2年(1862)に至って、横浜から引揚げた。

後に一橋家に仕え軍制調役下役となった。慶喜が徳川将軍となった後も、一橋家に留まり、明治2年(1869)2月41歳で死亡した(註11)。

 

(註8) 13代将軍家定は生来虚弱で、開港問題など危機に対応できないため、継嗣を要求する声が起り、一橋派と南紀派が争った。一ツ橋派は徳川一門の松平慶永(よしなが)のほか、島津斉彬(なりあきら)ら外様大名よりなる一派で、英明と言われた一橋慶喜(斉昭の第七男)を、南紀派は井伊直弼ら譜代大名の一派で家定の従兄弟にあたる紀州藩主徳川慶福18歳)を、それぞれ擁立しようとした。結局井伊の大老就任により家茂(慶福改名)が14代将軍となった。

(註9) 安政5年(1858)6月19日徳川幕府は、勅許を得ずに日米修好通商条約に無断調印した。

(註10) 安政5年6月24日、日米条約の違勅調印を責めるとして、定例の登城日ではないのに江戸城内に押し入った松平慶永・徳川斉昭・尾張藩主徳川慶勝・水戸藩主徳川慶篤・および同様に大老を詰問した一橋慶喜に対して、井伊大老は将軍の命として、屹度慎み(斉昭)、屹度慎み・隠居(慶永・慶勝)登城禁止(慶篤・慶喜)の処分を断行した。

(註11) 彦根藩邸に対する隠密潜入については、主として、横山健堂「松浦武四郎」による。

 

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最終更新日: 03/07/21