賞三 江戸に潜入

 

賞三が念願かなって、下級の水戸藩士に取り立てられたのは、安政2年(1855)のことであったが、水戸の獄舎脱走を弘化2年(1845)頃とみて、その間の10年間を、彼は何処で何をしていたのであろうか。

既述のように斉昭は、弘化元年(1844)11月幕府から謹慎を解かれたが、藩政参与は嘉永2年(1849)に至るまで許されなかった。しかも年若い藩主慶篤を擁して、藩政を左右する門閥派は、斉昭の政治的復権を幕府が許した後も、藩政介入阻止と、斉昭慶篤父子離間のため、権謀術数を用いた。

水戸の獄舎より脱走した賞三は、江戸に潜入した。初志を翻さず、斉昭復権のため微力をつくそうとしたが、彼独りでは何事もできない。賞三が江戸で先ず頼るべき人物は、桜任蔵を措いて外になかった。

尤も任蔵は、後に自宅に賞三を同居させたこともあったが、脱走間もない彼を自宅にかくまうことは、水戸藩当局の探索に対し危険と考えたのであろう。賞三は任蔵の知友林鶴梁の世話をうけた。鶴梁は幕臣、漢学者としても著名であり、藤田東湖・橋本左内らとも親交を結ぶ、見識ある人物であった。

賞三は鶴梁から漢学を学び、またその手足となって雑務を処理し、林の外戚三井国蔵(後にその五においてこの人物に触れる)宅に、使者としてたびたび出入りした。常陸の田舎出身で、未だ江戸の風俗に馴れない彼は、白木綿の襦袢を着て半襟をかけず、三井家では「白半襟の使者」との愛称を与えたという(賞三の江戸における行動については横山健堂「松浦武四郎」による)。

ところで賞三は、孫根に残した最初の妻を離別した。彼自身はこのことにつき「水戸国難のため妻を去り幼児の養育を両親に依頼」と語るのみである。門閥支配の水戸藩当局のお尋ね者である自分との係りをなくしてやろうとしたのか、或は反体制の地下活動を続ける自分の留守を預かるに、相応しくない妻と考えたのか、その辺の処は判らない。

しかし独身生活は、そう長くは続かず、嘉永2年(1849)の晩秋に、35歳の賞三は、桜任蔵の媒酌で、相模国愛甲郡八菅(はすげ)村の庄屋熊坂家の娘魚津(なつ)と再婚した。ところが新婚生活を楽しむことなく、新妻を直ちに本郷妻恋町の「専権(権力をほしいままにする)要職」−とのみ賞三は書き残しているが、門閥派に属する水戸藩側用人某―の家に、奥働きの女中として奉公に出し、隠密(スパイ)活動をさせた。

この頃既に賞三は、斉昭復権に挺身する者として、水戸藩改革派に認められ、その準メンバーとして活動していたとみてよかろう。なつが便所で書いたという密書は、賞三に渡され、更に情報として水戸藩改革派に伝えられた。それにしても、なつと賞三との連絡は、どのようにして行われたのであろうか。露見すれば、なつはお手討ちである。またなつを奥働きの女中にと紹介したのは、門閥派要人側が充分信用していた人物に相違ない。この頃賞三の水戸脱獄、江戸潜入以来、既に約5年を経過していた。彼が次第に広げた交友関係が役立ったとみてよかろう。なつの伝えた情報の中には、門閥派が斉昭とその子慶篤との間を、離間しようとする隠謀も含まれていたという。

それにしても、新妻に対して命懸けの役目を引き受けさせたことは、目的のため手段をえらばずの非難を免れない。しかしなつは、予め隠密の役目を果すことを納得の上で縁づき、熊坂家は水戸の斉昭公を巨頭と仰ぐ当時の尊皇攘夷派に、心を寄せていたのではなかろうか。桜任蔵が媒酌人であったことからも、この想像は、余り的外れではなかろう。

なつは、一年余の危険な奉公を無事つとめあげ、滞りなく暇をもらった。しかし事の露見を恐れて、彼女は暫く故郷の相模に、身を隠したという(主として前掲の平川梅子「女の一生」及び横山健堂「松浦武四郎」による)。

賞三が水戸藩改革派、特にそのリーダー藤田東湖の知るところとなったのは、恐らく桜任蔵の紹介によるのであろう。東湖は弘化元年(1844)斉昭の処罰に続き、幕命により役職を取り上げられ、江戸藩邸にて蟄居したが、任蔵は蟄居中の恩師東湖に対し、しばしば食料品や酒の差し入れをした。

東湖が蟄居を解かれて水戸に帰ったのは、弘化4年1月であったが、門閥派の当局は家禄を与えず、嘉永6年(1853)斉昭の幕府防海参与就任と共に、水戸藩海岸防禦御用掛として江戸在勤となる迄、文字通りの貧困生活を送った。このことを知った賞三が嘉永元年頃より江戸の友人達から小額の金を集めて、これを東湖に贈った(吉田武三「定本 松浦武四郎」)。

更に賞三自身が、東湖との接触を追憶した文章が残っているが、その大意は次のようである。

嘉永3年(1850−再婚した翌年)12月末に、未だ水戸藩門閥派当局の御尋ね者であった賞三は、水戸に密かに潜入した。昼は桑原信毅(のぶたけ)(水戸藩改革派、妻は東湖の妹)の宅に潜み、夜な夜な行動したが、ある夜信毅に連れられて東湖を訪ねた。

「直様(すぐさま)御座敷へ通せられ、故大先生(東湖)と三人にて密談」深更に及んだ。江戸の門閥派の動きその他の情報を詳しく伝え、また爾後の諜報活動につき指示をうけたのであろう。何分にも深更に及ぶ密談で「例の通り気力を助くるためとて、随意に盃は酌みたれども、極寒中にして薄衣の旅装(長年の落瑰生、厚衣購求の資に乏しと賞三は註している。それにしても江戸での生活資金は、どうしていたのか。時には郷里より密かに送金をうけていたとも考えられる)。いかにも寒そうな賞三を見かねて、東湖は夫人を呼び何か着るものはないかと尋ねた。何分にも貧乏暮し、家内一同着たきり雀で余分の着物はなく、たゞ黒紋付の綿入れが一つありますと夫人は答え、賞三は古びた定紋付きの黒羽二重綿入小袖を借り着して辞去した(藤田健「血涙餘滴」所載、賞三の東湖夫人追悼記による)。

賞三はこの時初めて、東湖夫人と会ったと明記しているが、東湖とは既に面識があった。なお賞三の兄の息子加藤木東之介は、嘉永元年(1848)14歳の時、水戸にて幽居中の東湖の家塾に入門し、三カ年間薫陶をうけたから、東湖夫人に対しては、門人東之介の叔父だと紹介されたかも知れない。

嘉永6年東湖が斉昭の側近として、江戸で再び活躍を始めてから、賞三は藤田家をしばしば訪ねて東湖より「種々御用向も伺ひ」その政治的な活動を助けた上に「時として御勝手小買物等の御用便」つまり藤田家の勝手向きの手伝いまでしたようである(引用文は前掲「血涙餘滴」より)。賞三は、嘉永3年頃は、江戸大塚台町の桜任蔵宅に同居していたが、嘉永6年頃には、平野正太郎の変名で、本郷金助町の旗本山本織部の用人になっていた。

旗本は必ず「用人(ようにん)」(今の言葉で言えば執事とでもいう役柄)を用いなければならず、従って譜代の用人がいたのであるが、小身の旗本などにはその余裕はなく、必要な時に臨時的な用人を雇い入れた。この臨時用人は、町人でもなく武士でもなく、雇われた時だけの二本差しであった(三田村鳶魚「江戸武家事典」)。

何故賞三が旗本の用人となったのか。僅かでも生活の資を得るためか、或は旗本用人という肩書が、水戸藩改革派のための彼の活動に役立ったのか、その理由は判らない。

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最終更新日: 03/05/04