最終更新日: 11/01/11  

 

太平洋戦争と南方戦線

 

精一は 3年間の京都での学生生活を終え、故郷に戻って就職したのも束の間、翌昭和16年(1941)3月20日、大学卒業の約1年後に26歳で軍に召集され、栃木県宇都宮の第51師団東部第40部隊(陸軍野戦砲兵第14連隊)に入隊することとなった。

精一の入営 (昭和16年(1941)3月撮影)

精一は身長こそ159cmと小柄であったが、軍においても常に背筋を伸ばして才覚を発揮し、同年7月1日は一等兵となり、幹部候補生として千葉県印旛郡千代田町四街道の陸軍野砲兵学校に移された。精一は同年9月1日に上等兵甲種幹部候補生、11月1日には伍長と順調に昇格をしていった。

四街道での精一 (昭和16年(1941)11月撮影)

この年12月8日には日本軍は真珠湾を奇襲し米英に宣戦布告、わが国は第二次世界大戦の泥沼へとはまっていった。精一は先の甲種幹部候補生試験に際しては 兵科と同時に経理部幹部候補生を志願し、その双方に合格していた。成績は経理部幹部候補生試験では師団で一番であったのに対し、兵科幹部候補生試験では野砲隊の一番であったので、一旦は兵科に廻された。しかし大東亜戦争勃発後、経理学校の募集があり、精一は日立製作所において日米の機械生産能力、特にエンヂン等の自動車関係、機関銃・航空機等の兵器関係の性能・生産能力の格段の差を知っていたので、これに応募して合格したのである。その結果翌昭和17年(1942)1月20日、精一は陸軍経理部見習士官として東京青山北町四丁目の東部第7部隊へと移され、同年3月20日には主計中尉に昇格したうえで4月1日、第11期丙種学生として陸軍経理学校に入校した。 軍隊でいう経理は兵員や物資の輸送、補給をいう。作戦給養の人材を育成する学校であり、昼は戦闘訓練や作戦時の補給の実地研究、夜は学科で 戦術のほか、現地での糧秣、物資の調達、自活の方法などを学んだ。

当初は日本軍が攻勢であった戦局も同年6月5日のミッドウエー海戦を転機として日本軍にとって次第に不利な情勢となってきていた。更に同年8月7日には、米軍はガダルカナル島を空襲、8月20日、9月12日には上陸反撃し、逆にその攻勢を強めてきていた。

こうした状況の中で、精一は昭和17年(1942)9月22日陸軍経理学校を優秀な成績で卒業し、2日後の9月24日、第51師団東部第37部隊(歩兵第102連隊補充隊)附として久しぶりに故郷の水戸に戻ってきた。

主計中尉となった精一(昭和17年(1942)9月撮影)

ここで第51師団および歩兵第102連隊について紹介する。歩兵第102連隊の母体は 茨城県水戸の歩兵第2連隊であり、西南戦争、日清・日露両戦争に参加。第51師団は明治38年奉天会戦勝利後、宇都宮、水戸、高崎という北関東地区をテリトリーとして創設された第14師団(宇都宮師団)を母体としていた。歩兵第2連隊は大正8年3月にはシベリヤ事変にも出兵している。大正14年5月 第14師団に松本の第50連隊が隷下に加わり、昭和2年4月に満州に渡り南満州鉄道の警備に任ずる。後、関東軍の隷下に入り張鼓峰事件(昭和13年7月)、ノモンハン事件(昭和14年5月)に加わり、昭和19年春、第50連隊はパラオ諸島の警備、ペリリュー島で玉砕。

第51師団は第14師団を母体としてソ連進攻作戦を目的として昭和16年7月に関東軍特別大演習(関特演)を名目として編成され関東軍の隷下に入り直ちに渡満、コロ島に上陸した。同年8月9日関特演は打ち切られ、錦州に駐屯。同年9月18日南支那派遣軍(第23軍)の戦闘序列に入り広東に移動、南支黄浦、仙頭へ上陸、広東東方から珠江東方周辺の守備、討伐に任じる。大東亜戦争勃発に伴い、一部は香港攻略戦に参加(同年12月)。昭和17年10月20日に守備を第104師団と交代、同年11月16日に第17軍に編入され、同年11月ラバウルに向かい出発。12月12日以降 逐次ラバウルに到着、同年12月23日第17軍から同年11月16日に新設された第18軍の戦闘序列に入り、第17軍、第18軍は共に、同年11月21日に新設された第8方面軍の統括下に入る。なお第8方面軍、第18軍、第51師団、第102連隊の通称名はそれぞれ、剛部隊、猛部隊、基部隊、基2803部隊となる。

翌昭和18年(1943)、戦局はいよいよ悪化し、同年1月3日にはニューギニアのブナで日本軍が全滅、また2月1日には日本軍はガダルカナル島から撤退を開始せざるを得なくなっていた。精一はこの年3月24日にいよいよ第51師団歩兵第102連隊附となり、出征待機状態となった。戦局がますます不利になったこの時期の出征は直ちに死を意味し、立派に成人した精一を戦線に送ることとなってしまった年老いた両親はさぞ心を痛めたことと察せられる。このとき父常男65歳、母ゆう54歳であった。

出征前の精一 弟博と (昭和18年(1943)撮影)

既に覚悟は決めていたが、いよいよ精一は昭和18年(1943)5月19日に広島の宇品港を饒津(ニギツ)丸で出港し南方戦線東部ニューギニアへと出征した。途中パラオに寄港し18日間の航海の後、6月5日にニューブリテン島ラバウル港に上陸、基2803部隊ココボ残留部隊に合流した。この年には4月18日に山本五十六元帥がソロモン上空で戦死し、北方ではアッツ島の日本守備隊が全滅する等、すでにわが国の敗色は濃厚となっていた。

 

 

精一はラバウルに2ヶ月ほど滞在した後、8月7日同じ饒津丸でラバウル港を出港し4隻の編隊を組んでツルブを経由してラエへと向かった。ところが途中米軍の潜水艦が待ち伏せしているとの報せが入り、艦隊が大きく迂回をしている間に、なんと当時最新鋭でかつ日本最大の商船であった饒津丸にエンジントラブルが発生し、工兵たちが船底の機関室にもぐりこんで修理を試みたがエンジンは始動せず、船は波に任せて浮いている状態に陥ってしまった。そのままでは饒津丸は敵陣の真っ只中に漂着することが予想される事態となり、やむを得ず他の3隻は精一の乗った饒津丸を残して先行することとなった。やがて夜になり、精一は赤道直下の満天の星を眺めながら自らの運命に思いを馳せていたとき、工兵の決死の努力によりエンジンが復旧し饒津丸は再び航行を開始した。が、まさにそのとき、僚船三隻の去った遥か西方より雷鳴のような音響と光が轟き、精一らは彼らの運命を知ることとなった。仮に饒津丸にトラブルがなければ、精一の乗った船も他の3隻と同じ運命をたどった筈であった。まさに精一は九死に一生を得たといえよう。このため饒津丸は再度航路の修正を余儀なくされたが、もはやラエへ向かう術はなく、やむを得ずニューギニヤ島フイエシハーヘンへと進路を定めた。

一行はこうして8月23日フイエシハーヘンへの西方クレチン岬に上陸した(精一は満29歳の誕生日を迎えた)。上陸後精一らは第18軍の一員として目的地であるボボイ、ラエへと移動を開始した。移動は部隊ごとに行なわれ精一の率いる部隊は若干数10名からなっていた。付近の海岸線は断崖絶壁が多く、崖の上を移動するか、または崖下の海沿いを移動するかの議論の末、ちょうど汐も引いていたこともあり、精一らは後者を選んだ。ところが、精一の部隊にいた石岡市で呉服屋の番頭をしていた 石塚中尉の体力が弱く、これがネックとなって行軍はなかなかはかどらなかった。精一は責任者として遅々とした進軍に苛立っていたが、やがて夜となり、斥候が崖の上に空の集積所(日本軍の食料・弾薬の貯蔵所)を発見し、一行はそこで仮眠をとることになった。

翌朝4時ごろ、霧で視界のまったくない中、しきりに鳴る艦船の汽笛が精一らの目を覚まさせた。いぶかる一行が崖の上から海岸を伺ううち太陽が昇り、霧が晴れてくるにつれ精一が見たものは眼下の湾内を埋めた数え切れないほどの舟艇であった。いったいこれは敵か味方か、と訝るうち、艦艇は陸地に向かって一斉に砲撃を開始し、砲弾が雨霰と海岸線を覆った。連合軍の上陸作戦が開始されたのであった。暫時続いた砲撃が止むと直ちに無数の上陸用舟艇が海岸へと着岸し、まず戦車が上陸した後、これも無数の兵士が戦車に守られるように続いて上陸し、キャンプを張りはじめたのであった。すでに陽は回りやがて夕方にもなろうかという時刻になっていた。精一らは連合軍の物量にものを言わせた上陸作戦を間近かに眼のあたりにし、もしも行軍が予定通り進行していれば、連合軍の上陸作戦とまともにぶつかり部隊は全滅していた筈であることを思い、再び運命の女神に感謝を捧げた。精一は奇しくも連合軍の東部ニューギニアにおける「カートホイール(車輪)作戦」(挟み撃ち作戦)の始まりに遭遇したのであった。

その夜、精一らは闇にまぎれて連合軍の基地を迂回し、行軍を続け、数日をかけてようやくラエ地区に到達した。しかしラエ・サラモア付近に展開していた第51師団を中心とする日本軍1万名はやがて戦線をもちこたえることが困難となり、9月22日ラエからの撤退を決行した(ラエ・サラモア作戦)。精一は主計中尉として、退路沿いにサラワケット山麓への集積所の設置を指揮していた。このときも精一の語学力が活躍し、早くも現地語(インドネシアンイングリッシュ)をマスターした精一は、作戦遂行に先立つ原住民との折衝、集積所の設置等の役務を任せられるようになっていた。ある日、精一が分隊を指揮していると、偶々連隊長の陣の近くにいることを知り、挨拶をしに持ち場を離れたところ、分隊が敵機の来襲に遭遇した。敵機は通常低空飛行で襲ってくるが、そのまま去ってしまえばまず問題はなかった。問題は通過後に反転してくる場合であり、その場合は狙ってくるので被害が大きくなる場合が多かった。このときも敵機が反転してきたので精一は「これはあぶないぞ」と思うまもなく、たったいままで精一がいた分隊をめがけて爆弾をいくつか落とし引き上げていった。精一が急いでひきかえすと、何人もの僚友が、おそらく爆風による窒息死であろうか、そのままの体型で息絶えていた。一人の兵隊は「目が見えない」と叫んでおり、見ると両目が飛び出して垂れ下がっていた。精一は「医者を呼んでくるから待っていろ」とは言ったものの近くに軍医もおらず、突嗟に腰にあった手ぬぐいで垂れ下がった両眼球を掬い兵隊の頭に目隠しをするようにあててやった。このときも精一が連隊長に敬意を表しに分隊を離れなければ、あるいは自身も命を失っていたかも知れなかった。

この時の残存兵8千5百名による撤退行軍は困難を極め、各自6百グラム(10日分)の米を持ち、敵機の目をくぐりながらの4千メートル級のサラワケット山脈横断中には日本軍は飢えと疲労で兵2000人を失った。

こうして精一らはフイエシハーヘンへと戻ったが、ある日部下の兵隊が「どうも敵機の数が多すぎる」と報告してきた。精一も同様に考え、ちょうどその日、工兵隊がキアリ地区に陣地の構築の為に移動することを知り、直ちに上司にこの作戦への参加を申し出、許可を得た。精一らは早速当日出航する「はしけ」と交渉し部下ともどもこれに乗り込んだ。この「はしけ」は傷病兵をキアリの病院に送るための便であったが、精一は「船べりに腰掛けてでも」と頼みこみこれに乗り込んだのであった。上司が「翌朝に船を手配するのでそんなに急がなくても」と言うのを「善は急げと言いますから」と遮っての出航であった。

翌朝4時ごろ、暗い海の上をゆっくりと航行するはしけの上から精一がやってきた方向を見ると雷のような音と光が轟いてきた。オーストラリア軍によるフイエシハーヘン奪回作戦が開始されたのであった。この日、フイシハーヘンに残留していた日本軍は全滅しており、精一が出発を朝まで延ばしていたり、あるいは徒歩でキアリを目指していたならば、戦死を免れ得なかった瀬戸際であった。

激戦の結果同日10月2日、オーストラリア軍はフイエシハーヘンを奪回占領したが、日本軍はあきらめず10月16日再度奪取のための反撃を開始した。しかし、この間マキン、タワラ両島では日本軍守備隊が玉砕し、さらにサテルベルグがオーストラリア軍に奪回される等、戦局は日本軍にとって極めて困難な事態となり、ついに12月5日、日本軍はフイエシハーヘン放棄を決定しサラワケットへと撤収した(サラワケット転進作戦)。

年が明けて昭和19年(1944)1月2日、連合軍はグンビ岬に上陸、さらに攻勢を強めてきた。このため、1月15日、シオ、キアリ地区の第20師団および精一が所属していた第51師団(いずれも第18軍)は、ガリへの撤退を開始したが(ガリ転進作戦)、グンビ付近の連合軍を迂回しながらの撤退であったため、これもまた困難を極めた転進となった。この後はボキア、ハンサ、マリエンブルグからウエワクと転進につぐ転進となったが、連合軍機は3月11日から22日にかけ連日ウエワク地区を空襲、敵機来襲をくぐりながらの転進はすでに精一の目にも勝敗は明らかであった。

同年4月22日、マッカーサー指揮下の上陸部隊がアイタベ、ホーランシアに上陸し、5月9日大本営は西部ニューギニア確保要線をソロン/ハルマヘラとし、第二方面軍にこれを指示したが、第二方面軍はこれを無視、マクノワリに増援を行った。すでにこの頃日本軍の指揮命令系統は崩壊していたのである。5月17日連合軍はサルミ、ワクデに上陸、さらに5月27日には米軍がビアク島に上陸した。暴走した第二方面軍は6月4日、一個大隊をビアク島に逆上陸させたが、6月13日には日本軍はビアク島への増援輸送を中止せざるを得なくなり、この一個大隊は見殺しにされ約2ヶ月後の9月8日全軍玉砕した。

同年7月10日、第18軍はアイダベ上陸の米軍に対して反撃を開始したが、量に勝る米軍は7月30日サンサポールへも上陸し、日本軍はいよいよ追い詰められていった。第18軍は全員死を覚悟し最後の決戦地をウエワクと定め、8月6日、アイダベ攻撃を中止し、全軍にウエワク地区集結を下令した(ウエワク邀撃作戦)。

精一がこうしてニューギニア戦線で死線をかいくぐっているとき、父常男は子供達の身を案じながら昭和19年(1944)10月24日に水戸で没した。享年66歳であった。精一は南方戦線で滅多に父親の夢を見ることはなかったが、唯一度夢に父親が出てきて「お前の命はわしが守ってやる」と言って消えていったことがあった。この正確な日時は忘れていたが、精一は引き揚げ後、ちょうどこの夢を見た時期に父が死去したことを知り、感慨を覚えた。残された母ゆうは水戸市梅香の屋敷の半分に建てられた長屋の賃貸収入で梅香の家を守っていたが、翌昭和20年(1945)7月の水戸大空襲で家屋敷をすっかり焼失し、つてを頼って東茨城郡岩船村に疎開をすることとなっていた。

精一の所属する第18軍はウエワク邀撃作戦に失敗し、昭和19年(1944)12月には物資食糧の補給体制および統率された作戦を維持することがもはや困難となり、各部隊は現地自活をしながら邀撃態勢にはいるよう下令された。実際、この頃にはすでに連合軍は主戦力をフィリピン奪回へと振り向け、東部ニューギニアは主戦場の地位を失っていた。この後終戦まで、精一は補給の途絶えたニューギニアの山中で敵から逃れながら戦友と励ましあって生き延びることとなる。昼なお暗いジャングルと、一度食いついたらなかなか離れない山ヒルと、雨期のスコールとそれが止んだ後の凄まじい湿気、高地での朝晩の寒気と、アノフェロス蚊が媒介するマラリアに、全員が疲労困憊していた状況での自活生活は想像を絶する困難を伴っていた。

こうした困難の中においても精一は得意の語学を活かして原住民との親交を深め、充分とは言えないながらも分隊の食糧を確保することができた。 精一は原住民からは「キャプテン、キャプテン」と呼ばれて慕われ、遥か後の平成11年には、酋長の孫から「亡くなった爺さんがよく話を聞かせてくれたキャプテンに是非彼が大切にしていた人形を渡したい」 と人伝に高さ30cmばかりの木彫りの人形(写真)を贈られている。 

このように南方戦線では精一は三度の撤収作戦に遭遇し、先に紹介したようにいずれもその優れた状況判断から命を永らえてきた。精一自身は後日これを「幸運であった」と述懐しているが、やはり冷静な状況判断の結果といえよう。しかし過酷な転進作戦と大戦末期の延べ10ヶ月にも亘る自活作戦を経て、精一は風土病の「マラリヤ」に感染し、のちのち長く後遺症で悩むことになる。こののち終戦後10数年を経ても、時として夜半に発熱し、悪寒を覚えてがたがたとふるえ、布団を何枚もかけたうえ、家族総出でそのうえから押さえつけるといった発作に精一は苦しんだ。

昭和20年(1945)8月15日、多くの本土空襲と2度の原爆投下を経て日本は敗戦した。 この報は翌日には米軍機から散布されたチラシで精一らの知ることとなった。 原住民らもチラシを持参してきたりしており、精一らは「敵の謀略ではないか」と疑いを拭いきれなかったが、その翌日には近隣の電信器を保有している部隊より伝令も到着し、ようやく精一らは終戦を知ることとなった。 この報が前線全体に届くにはなお時間を要し、一部終戦を知らぬ日本軍部隊が水浴中の黒人兵を射殺する等の混乱はあったものの(この件に関しては日本兵は後に無実となった) ニューギニア方面については同年9月13日に全軍が降伏することとなる。この時精一31歳であった。第18軍として東部ニューギニアに上陸した総兵力は14万といわれるが、終戦時には辛うじて一万二千名が生き残った。更に復員までの間に死亡者が続き、日本に帰還できたのは若干一万名のみであった。生還できたことは幸いであったとはいえ、結局精一は大学卒業直後の26歳ー31歳というもっとも血気盛んな年代を戦争にささげる結果となってしまったわけである。まことに戦争は人および家の運命を狂わせてしまうものである。

ちなみに、精一は、18年8月1日付で主計大尉に昇格したが、20年7月25日の第18軍の玉砕命令に際して、全員1階級特進となり、主計少佐として終戦を迎えた。

 


精一自身が 第2次世界大戦の東部ニューギニア戦線の記憶

および 第2次世界大戦の南方戦線の年表 を書き遺しております。

「精一による東部ニューギニア戦線」   「精一による南方戦線史」 を参照ください。

 

また、精一の思い出を弟の博が書き遺しています。「博の記録」 を参照ください。


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