最終更新日: 13/10/08  

 

4 生還、ゼロからの出発

 

精一は翌昭和21年(1946)1月17日に航空母艦「鳳翔」にてニューギニア島ムッシュ島を出発、15日間の船旅の末同月31日に浦賀港に無事帰還した。思えば昭和18年(1943)5月19日に広島宇品港を出港以来2年8ヶ月ぶりの祖国であった。

精一は直ちに静岡県伊東町白雲閣に設けられた第51師団残務整理班経理班にて残務整理に着手し、約1週間の残務整理を済ませた後、2月6日に召集解除となり母の疎開先の東茨城郡岩船村北方綿折澤2037番地へと戻ってきた。母ゆうは、精一には水戸市で教職について欲しいと考えていた様子であるが、精一は召集解除と同時に公職追放の身となったのでそれはかなわず、同年7月8日姉好江の夫大久保稔が勤務していた民間企業の大成建設(旧大倉土木)に就職し、その語学力を買われて東京本社渉外室職員補の任についた。月給100円であった。またこの間6月24日には弟の博が森島さだ子と結婚し、父常男はすでに亡かったものの、加藤木家には久々に楽しい笑いが戻ってきた。生きて戦地から戻った他の多くの人々と同様、精一は日本の復興に向けて、この時より生涯、大成建設の発展にその精力を傾けることとなる。

處でここで精一の就職した大成建設と加藤木家の因縁浅からぬ関係を記しておこう。すなわち精一が入社した翌昭和22年(1947)2月に大成建設社長に就任した藤田武雄の祖父藤田東湖は、精一の曽祖父加藤木賞三(o叟)と交わりが深くまた桑原家を介して姻戚関係にもあった人物で、その意味からも精一がこうして藤田武雄のもとで大成建設の発展に精力を傾けるようになったのにも人の世の縁の不思議を感じるのである。

藤田武雄は明治42年(1891)1月生まれ、父の任(東湖の三男)は子供に恵まれず、兄健の三男武雄を養子とした。大正3年(1914)東京高等工業学校を卒業し、横須賀海軍経理部等を経て、大正14年(1925)大成建設の前身大倉土木に入社した。昭和15年(1940)満州大倉土木会社に転出し、昭和20年(1945)3月には常務取締役に就任、同社の代表者となったが、やがて終戦を迎え、社員を率いて内地に引き揚げるまで大変な苦労をなめた。

戦後大倉土木は大成建設と社名を変更したが、占領政策による財閥解体、公職追放の嵐を受け、資本的には大倉財閥から切り離され、終戦時の経営陣も昭和22年(1947)に追放されてしまった。そこで社員株主制度を採用して株式の過半数を継承するためにも、また新しい重役陣を選出して再建をはかるためにも、全社員の意志結集が必要ということで、幹部社員を含む「社員組合」が結成された。後に精一も中心となって編集刊行した「大成建設社史」は「経営機構の責任者を社員投票によって選出するというやり方は、一つには敗戦という未曾有の事態によって、経営内部における秩序が混乱していたこと、いま一つには創業以来の大倉財閥との強いきずなが断ち切られ、独自性をもって行動できるようになったので、人事面だけに旧秩序を延長することは好ましくないと考えられたことなど」によるとしている。

昭和22年(1947)2月8日役員選挙が行われた結果、取締役社長藤田武雄のほか、常務取締役3名、取締役8名、監査役3名が選ばれた。藤田武雄は「祖父(藤田東湖)の衣鉢を継いでか水戸学を研究し、また若いころは斗酒なお辞せぬ酒豪であったが、感ずるところあり一適も口にしない」ようになったという。また日本経済新聞掲載の藤田武雄論は「とにかく天衣無縫の感じの愉快なおじさんである。だれでもこの顔を見ただけで、彼が竹を割ったような直情径行の持主であり、無類の正直者であることがわかるにちがいない。東湖は派手な人物だったらしいが、孫の藤田はそれと逆におっそろしく地味で、わき目もふらずにひとりわが道だけをコツコツと歩いている。それがいいことか悪いことか知らないが、どっちにしても不肖の孫であることだけは確かだろうが、これも水戸学仕込みの一面だとでもいうならば、われまた何をかいわんやである。そう思って、よくよく藤田の顔を見なおしたら、鼻っ柱の強いところと生一本な熱情は、やはりおじいさんゆずりだという気がしてきた」(「大成建設社史」および朝日新聞「朝日人物辞典」による)。

後に精一が東京本社に復帰した際、社長の藤田に面会する機会があり 子供のとき 君の婆さんにはよく背負ってもらったよ」 と親しく声をかけられたそうである。藤田は幼時、水戸市梅香に在住しており、家も加藤木の家とわずか数件隔てたばかりであった。藤田の言う「婆さん」とはおそらく ふき のことと思われる。ふきは時折 幼時の武雄 のエピソードを精一に語って聞かせたこともあったという。曰く 「タケボウ(武雄)は家によく遊びに来ていたが、小便がしたくなると僅か電信柱2−3本の距離なのに自分の家にいつも走って帰った。男の子だからその辺で立小便をすればいいじゃないのというと、勿体無いと言う。自分の家の畑には肥溜めがあり、そこで小便をして少しでも役に立てるというのだ」と。

藤田武雄は大成建設の発展に大いに貢献し、昭和39年(1964)5月に没した。

大成建設に就職して約2ヶ月後の同年9月1日、精一に同社仙台支店への転勤命令が発令された。当時は義兄の大久保稔がすでに仙台に赴任し、総務課長(現在の管理部長)として支店の創設に尽力しており、会社も全社員を養う為には、社員をできるだけ縁故のある「地方」(地方は東京とくらべて比較的容易に闇米を入手できた)に分散させる必要があり、精一の転勤もこの方針に従ったもので当時としては会社も人も生き延びるためにはやむを得ないことであった。

精一の母ゆうは精一に仙台赴任の前に嫁を娶らせたいと考え、精一の通っていた聖公会と相談したところ、兄が同じ聖公会に通っていたという青木友江を知り、精一に結婚を薦めた。 友江は水戸高等女学校を卒業して当時は茨城県笠間町(現笠間市)下市毛189番地に住んでいたため、精一は笠間に友江を尋ねに行き、縁側にひとり心細げに座って精一を待っていた友江を愛しいと感じ、同年9月8日に結婚した。 友江は旧笠間藩士の家系であった父青木庸富(つねとみ)と母カヨとの間に福岡県門司市において大正10(1921)年3月10日出生 (詳しくは青木友江の項参照)、精一32歳、友江25歳の結婚であった。 このとき結婚を祝福して聖公会の森譲夫妻からミレーの晩鐘のレプリカを贈られ、精一夫妻はこの絵を大切にし、生涯居間に飾って心の糧としていた。 慌しい結婚であり、また民法の親族法の改正直後でもあり、入籍は1年遅れて翌年の9月8日に仙台市で届出された。

ミレーの「晩鐘」 裏書に 祝聖婚 昭和21年9月8日 森譲 砂 加藤木精一様 友江様 と読める

精一が仙台に転勤するということで、母ゆうと精一たち兄弟は水戸市梅香の屋敷の処分について協議したが、この地には既に借家の人々が焼け跡に仮屋を建てて住みついており立ち退きは困難であったので、この際水戸の家屋敷を処分し、得られたわずかの金を子供達に分配することとして、精一は、母ゆう、新妻の友江および妹幸子(当時23歳)の4人で仙台へと赴任した。

旧加藤木邸内にただひとつ焼け残った社(左) と焼け跡に建ったバラック(右)

(昭和21年(1946)撮影)

既に終戦前より義兄の大久保稔が仙台に転勤し、居を構えていたので精一はとりあえず新妻の友江と母ゆう、妹幸子の4人で大久保宅に身を寄せることとした。その後新居を市内に探し、同年11月、仙台市成田町15番地に貸家を見つけて引っ越した。まことに精一、友江にとっては見知らぬ土地でのゼロからの出発であった。

この頃母ゆうは、買出しの貨車に乗る際に混雑のためあやまって胸部を強打し、呼吸器系統に炎症をおこしていた。東北大学病院の医師が往診に来てくれたりはしたが、戦後すぐのこととて良薬もなく、体調を落としていた。更に当時の仙台は冬寒く、雪も深く、新居においても朝起きるとゆうの枕もとに置いてある吸呑みの水が凍っているような状況で、様々な苦労が重なった上での慣れない北国の冬の寒さに、ゆうは翌昭和22年(1947)1月に肺炎に臥し、内孫の誕生を待たずして同年2月6日に没した。享年60歳の若さであった。 母ゆうをたいへん慕っていた精一は 葬儀の後も 納骨を急がず 永く住居内に留め 毎日仏前で読経を奉げていた。

 


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