博の記録

 

精一の弟、加藤木博が、生前リハビリテーションの目的で、過去の思い出を文章にしている。博の嗣子、好雄がこれを整理し、精一の出征を見送った逸話の部分を精一に送ってきたので、以下に紹介する。リハビリ中の文章でもあり、原文を一部好雄が修正したものを紹介する。

戦場に兄を見送る NO.1

兄は昭和14年に京都大学を卒業し 私は16年に桐生高等工業学校を卒業して 日立製作所入社しました。両親は私が会社に家から勤務することを歓びました。第二次世界戦争が始まると 兄は内緒に経理将校の試験を受けて合格しましたので 会社を辞めました。それから東京の麻布の近衛連隊に配属させられました。

皇居を守護する連隊なので 兄は戦場志願なので 希望を募って水戸の歩兵連隊に行きました。半年位でニューギニヤに行けという命令がくだりました。

兄の手紙の中に 「祖国の為に戦場に命をかけます。長男ですが次男の博に両親に孝行を頼んだよ」と簡単明瞭に書き、その手紙のうしろに 兄が乗った軍用列車が磐田駅で一分間停まることを知らされました。

しかし 私も軍隊にひっぱられたので 両親の事も面倒をみる事が出来ないのです。恐る々々 私の連隊長に兄の手紙を持って相談に行きました。連隊長はじっと手紙を見ていましたが 「日本が敗れるか如何か分らない。しかし貴殿は無線やラジオロケーター(警戒機)を教育する教官が適切だから 戦場にはやらせないので 両親にも安心するよう伝えてくれ。万一後の連隊長になったにしても申し伝えてやる」 と仰しゃりました。

私は 水戸から来た軍用列車に乗り込んで豊橋駅まで見送りました。その時間は短かかった。二両は将校室で 酒の臭と煙草の烟りで一杯でした。「加藤木の弟だ よく来たなあ」 と酒や菓子をくれ歓迎されました。

兄さんと二人で連隊長の言葉を在の儘に伝えますと 兄はほっとして私の手を握って涙を浮べました。兄は双眼鏡の16倍と私の12倍とを取り替えて形見にくれました。豊橋駅で降りて兄や将校の友達と元気に握手をしました。発車のベルがなると みるみるうちに汽車が点の様に小さくなってしまいました。私は 豊橋駅のホームに立って ポカンと一人で見送り、耳の底には元気な将校達の歌が聞こえていました。

 

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