東湖と武四郎と 賞三

 

嘉永2年(1849)南千島に渡った松浦武四郎は、その後安政3年(1856)3月に至る迄、北辺を訪ねることなく、主として江戸で著述に専念した。

その代表的なものの一つは、嘉永2年の「蝦夷大概図」で、これは世に刊行されたわが国最初の北海道地図であった。翌3年脱稿の「蝦夷日誌」(註15)も、当時北辺について知る重要な著作で、3回に及ぶ踏査による体験と調査をもとに書かれているが、単なる旅日誌ではない。松前藩の制度、アイヌと和人との関係など、政治・民族問題をも紹介し、また絵や地図が添えられていた。

武四郎は嘉永3年に、当時既に稀覯書となっていた「新葉(しんよう)和歌集」(吉野朝歌人の作に限られた和歌集、1420首)を復刻自費出版し、彼の名により新たに加えた跋文(後書き)の代作を、加藤木賞三を通じて藤田東湖に頼んだ。自らの名前の出ない代作ではあったが、東湖は快くこれを引き受け、その一節に「讀者をして慷慨流涕(南朝の衰微を憂い歎き、涙を流す)禁ずる能はず」と書いた。

そして賞三に送った手紙に、大意左の如く武四郎を評した。

「松浦の事は、貴殿の書面や話によって詳しく知っているが、天下の奇男子である。今の世の中に、このような人物がいるから、簡単には死にかねる。近頃にない愉快なことである」と。

嘉永6年(1853)には、先ず6月にペリーが軍艦4隻を率いて浦賀に来航、アメリカ大統領の国書を幕府に渡し、幕府は徳川斉昭を防海参与に任命、藤田東湖は海岸防禦御用掛の肩書で、斉昭の側近に復帰した。7月にはロシアの使節プチーチャン海軍中将が、軍艦4隻を率いて長崎に入港し、国書を長崎奉行に渡して、日ロ国境問題の解決と、通商を求めた。8月には武四郎が、「蝦夷日誌」35巻を賞三を通じて徳川斉昭に献上した。

ところでこの年10月、13代将軍となった徳川家定に対する将軍宣下(せんげ)(天皇が征夷大将軍に任じる言葉を下す儀式)に際し、国防に関する沙汰書が下されるよう朝廷に請願する計画が、藤田東湖・藤森弘庵(儒者、嘉永6年「海防備論」を著し、「芻言(すうげん)」を斉昭に建白し、名声一時に挙った)鷲津毅堂(後に尾張徳川家の藩主侍讀となる。武四郎と親交を結び、小説家永井荷風はその孫)によって、密かに立てられた。武四郎は鷲津より密使として上洛を頼まれ、三人が書いた文書と、その企てを耳にした吉田松陰の国防の急務を論じた一書などを携えて、9月江戸を出発した。

京都に入った武四郎は、多くの協力者(その中には著名な尊攘の志士梅田雲浜、尊王論者の漢詩人梁川星厳、函館で知己となった頼三樹三郎等がいた)に助けられて、将軍宣下伝達の勅使として江戸に下る予定の武家伝奏(武家の奏請を朝廷に取り次ぐ役)坊城俊明(としあきら)・三條実万(さねつむ)をはじめ、枢要の地位の公卿に働き掛け、請願聴許の内報をえて、11月中旬江戸に帰った。

ところがこの時、武四郎は水戸斉昭公に依頼され、夷敵退治の錦の御旗下賜を願いに京都に行ったとの噂が立った。桜任蔵はこの噂を信じて、漸く将軍家と和解し、幕政に参与した斉昭と、幕府の関係を再び悪化させると激怒し、武四郎を江戸帰着の前に取り押え、幕府に引渡すと待ち受けた。このことを知った加藤木賞三は、武四郎の身を案じて、桜任蔵を藤田東湖のもとに連れて行き、真相を聞かせ、斉昭は全然関係ないことを説得したという。

その年12月下旬、江戸に着いた両勅使は、将軍宣下の後、老中阿部伊勢守らに対し、ペリー提出の米国国書の要求は「神州の一大事であるから、いよいよ衆心堅固に、国辱後禍のこれなきよう」にとの主旨の沙汰書を授けた。これに対して阿部は、将軍以下叡慮を安んじられるよう努力しているが、何分にも十分の防備が整っていないことを率直に述べ、なお国防について天皇の思し召しあれば、遠慮なく仰せつけられたいと、朝幕の意志疎通を更に一層はかることを約束した。

このように松浦武四郎は、ひとかどの尊攘志士のような役割を果したが、後になって、安政大獄により彼の親交を結んだ頼三樹三郎、吉田松陰等が刑死したことを想起し、若し自分が蝦夷地探険に身命を打ち込んでいなかったら、無事ではすまなかったであろうと述懐したという。

翌安政元年(1854)10月ロシア使節プチャーチンが再び来航し、下田において幕府当局者と日ロ和親条約について交渉、12月21日条約が調印された。この条約は日ロの国境を択捉島とウルップ島の間に定め、樺太は次の条約が結ばれる迄は、従来通り両国人雑居のままとした。その後樺太の問題につき、引き続き日ロ間の交渉が行われたが結着をみず、漸く明治8年(1875)5月、特命全権公使榎本武揚がロシアの首都ペテルブルグで、樺太・千島交換条約に調印した。この条約により、日本は樺太を放棄し、その代償としてウルップ島以北のロ領千島諸島の領有権とオホーツク海沿岸における漁業権などの権益をえたのである。

話は元に戻るが、幕府は安政元年、樺太方面へのロシア進出状況調査のため派遣した目付堀織部正らの復命によって、縮小された松前藩領を除く全北辺地域を、安政2年(1855)より幕府直轄地とした。その管轄は、箱館開港によって設けられた箱館奉行所があたり、北辺の警備は、松前藩の外、弘前・盛岡・仙台・秋田の東北四藩に分担させた。

前述の堀は箱館奉行に就任したが、彼は前年の樺太調査に際し、武四郎の同行を望んで実現しなかったが、武四郎の北辺に対する経験と知識を認めていた。その上に、武四郎が親交を結んでいた幕臣向山源太夫が、箱館奉行支配組頭となった。向山のすすめに従い、安政2年9月、武四郎は、その著述(註16)で松前藩の秕政を鋭く批判したため、同藩に敵視された。幕府の目附に武四郎を中傷・讒訴して罪に落とそうとし、或は徳川斉昭が彼を登用しようとすると、邪魔を入れた。しかも遂には松前藩の刺客が身辺をうかがっていると心配する友人もあり、安政元年11月、武四郎は小石川の水戸藩邸近くのある長屋に潜(ひそ)んだ。それは長屋とは言え、実は馬小屋で、馬をつなぐ四本柱の中だけを借り「三枚の畳も五寸ばかりづつ端を切りて敷き込み、それに机と本箱を置きぬ。飯は(食事のためには)火鉢一つにて土鍋に土瓶ばかり、茶碗、はし等は机の引き出しに入れ置く事なり」という惨な状態であった。そして、この時のことを思い出して、今後「如何様に相成候共増長をせまじと独り戒言(いましめの言葉)を認め置きぬ」と、前掲の日記風自伝に書き残している。

藤田東湖も武四郎の身を案じて、この馬小屋を訪れた。その東湖も、翌安政2年10月「安政の大地震」のため震死し、有力な理解者を失った。しかし前述の通り、この年の年末に、幕府お雇いとなり、松前藩も武四郎にはもはや手出しができなくなった。従って安政3年(1856)の元旦は「生きたる心地になりて」迎えたのであった(註17)。

 

(註15) この日誌は、「初航蝦夷日誌」12巻、「再航蝦夷日誌」15巻、「三航蝦夷日誌」8巻計35巻よりなった。

(註16) 前記「蝦夷日誌」のほか、弘化4年に執筆した「秘めおくべし」は、松前藩の内情をあますところなく暴いた。

(註17) 本稿は、既に引用の史料以外に、吉田武三「松浦武四郎」、吉田武三「定本松浦武四郎」(上巻)、更科源蔵「松浦武四郎」及び北海道新聞「北海道大辞典」、鈴木常光「桜任蔵」、榎本守恵・君尹彦「北海道の歴史」等を参考とした。

 

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  最終更新日: 03/05/04