松浦武四郎と 賞三

 

松浦武四郎は、加藤木賞三と江戸で知り合った後、いわゆる幕逆の友となり、賞三の三男一雄を嗣子として養子に迎えた人物である。松浦は幕末における蝦夷(北海道)、北蝦夷(樺太)、千島(以上の地域を以下北辺と總稱する)の探檢家であり、著述家であり、また「北海道」と「樺太」の名付け親でもあった。しかも彼は先住民のアイヌと深いかゝわりを持ち、その悲惨な状態を世に訴えた。以下松浦について語ることとする。

武四郎は、文政元年(1818)伊勢国一志郡の雲出(くもづ)川南岸の須川村(三重県一志郡三雲町小野江)の庄屋・郷士であり、本居宣長の門下生でもあった松浦時春の四男末子として生まれた。幼名は竹四郎、後に武四郎とも書くようになり、後者が通り名となったが、後年に至っても公文書には竹四郎と書いている。

天保5年(1834)17才の時、諸国遍歴の旅に出て、その足跡は北は陸前の松島から、西は四国・九州・壱岐・対馬に及んだ。天保9年21才、長崎にて出家し、平戸では住職も勤めたが、天保14年(1843)たまたま長崎の宿老より、樺太・北海道・千島方面へのロシア勢力進出について聞き、北辺の探險を決意した。

翌弘化元年、10年振りに故郷に歸り、父母の法要を行った後、還俗して弘化2年3月江戸を出発、壮途についた。当時北海道には津軽又は下北半島北部の港から渡ったが、武四郎はそれらの港への往復に、東北・北陸・佐渡などに回り道して、全国遍歴の初志を貫いた。この時も漸く9月に津軽の鰺ヶ沢に到着したが、蝦夷行き旅人の取り締まり嚴重のため便船を得られず、渡海を断念して江戸に引き返した。

しかし翌弘化2年(1845)3月、28才の武四郎は江戸を出発、再び鰺ヶ沢に至った。幸にして前年同地で懇意となった人々の盡力により、北海道江差の商人の持ち船に乗船を許され、漸く渡海できた。早速北海道踏破の旅に出たが、松前藩の旅人取り締まり嚴しく、行動範囲が嚴しく制限されたため、武四郎は江差の人別帳(江戸時代の戸籍簿)に入籍し、同地の住民となった。一介の処士が、北海道に渡り、更に道内を広く行動することは、当時容易ではなかった。たまたま知り合いとなった箱館(函館の旧名)の商人の配慮により、行く先々の紹介状をもらい、加賀屋孫兵衛の手代ということで、箱館・室蘭・釧路・根室を経て、知床岬に達した。ここに「勢州一志郡雲出松浦武四郎」と墨書した標柱を立てて引き返した。

この年11月松前から津軽に渡った武四郎は、江戸への歸途水戸に立寄り、会沢正志斎を訪ねた。会沢は、水戸藩の尊皇攘夷論を体系づけた「新論」の著者であり、また弘道館の初代總裁をも勤めた、当時全国的に高名な人物であった。しかしこの訪問の目的は、單に碩学の誉れ高い会沢の謦咳に接するだけではなく、外に重要な狙いがあったように思われる。

水戸藩は、2代目藩主光圀が蝦夷地に深い関心を持ち、快風丸と名付けた大船(總長約49メートル、巾約16メートル、櫓40挺)を建造して、貞享3年(1686)と4年に蝦夷地に派遣し、元祿元年(1688)2月には、65人を乗り込ませて第3回目の蝦夷探險に赴かせた。この船は、松前を経て石狩川まで航行し、原住民と交易(米一斗を鮭100匹の割合で交換)した後、8月歸途についたが、颱風のため漂流し、漸く12月那珂港に歸りついた(茨城県立歴史館「徳川光圀略年譜」及び佐藤進「水戸義公伝」による)。

また9代目藩主斉昭は、ロシアの南下に備え、国防のため自藩による蝦夷地開拓を幕府に願い出で、更に将軍にも文書を提出したが許されなかった。

一介の処士に過ぎない武四郎の北辺踏破は諸国遍歴によって鍛えた体力、多藝多才の教養(篆刻は一家をなし、和歌は佐々木信綱の父弘綱に、絵画は石井柏亭の父鼎保に学び、骨董の鑑定も素人離れであった)に加えるに、魅力ある人柄と社交性などによって、行く先々で得た知己、友人の協力があってこそ、漸く可能となった。蝦夷地に関心を持つ御三家の水戸藩から、若し何等かの庇護が得られれば、心強く有難いと、武四郎は密かに考えて、先ず会沢正志斎に接觸したのではなかろうか。

翌弘化3年(1846)1月、武四郎は再び北辺に向ったが、水戸を通って、また会沢を訪ねた。江差に到着すると、前年懇意となった知人が、松前藩医西川春庵が樺太詰となって赴任するその下僕として同行できるように手配してくれていた。これで樺太行きが可能となった。

武四郎は雲平という名の草履取り姿で、西川等樺太勤務の松前藩士一行(彼等は夏期のみ樺太に駐在したようである)と、5月下旬宗谷から樺太の白主(しらぬし)に渡った。一行は更に樺太南部(マーヌイ・クシュンナイ以南)を巡察したが、武四郎は彼等と共に東西兩海岸を踏破した。

宗谷に歸着したのは、7月19日だったが、ここから武四郎は別行動をとり、アイヌの案内人一人を連れて、オホーツク海沿いに知床に至った。前年たてた標柱に、藤田東湖作「玉鉾(たまほこ)の(みちにかゝる枕言葉)みちのく越えて見まほしき蝦夷が千島の雪のあけぼの」の一首を書き添えた。9月はじめ江差に歸ると、頼三樹三郎が滞在しており、武四郎とは一見旧知の如く、たちまち意気投合したという。

武四郎が加藤木賞三と懇意になった時期は判らぬが、嘉永元年(1848)より後のことではない。武四郎の「自伝」(註12)によると、嘉永元年の節に、この頃から葉山静夫、加藤木賞三らと申し合せ、僅かづつの金を積立てて、水戸で窮乏中の藤田東湖に送り始めたと書いており、續けて「烈公(斉昭)よりもいと有り難き仰せごとを蒙りたり」と感激している。水戸藩の庇護を期待していた武四郎にとって、有難い仰せとはどのようなものであったかは判らないが、或は将来召し抱えの意志あることを洩したのかもしれない。斉昭は北辺についての情報入手に熱心で、水戸藩の碩学豊田天巧に「北島志」(註13)を編集させている。

加藤木賞三と武四郎の交友関係は、双方の知己である桜任蔵・林鶴梁(本稿その4参照)らによって結ばれたものと考えてよかろう。その上に斉昭に認められて後、武四郎と水戸藩との接觸は、すべて賞三を通じて行われることとなった。賞三が水戸藩士に登用された安政2年に、武四郎が幕府の箱館奉行所役人に送った書簡には、自らを「水戸殿家來加藤木賞三厄介(やっかい)松浦竹四郎」と書いている。

嘉永2年(1849)32才の武四郎は、1月江戸を出発して、第3回目の北辺探險の旅に出た。目的地は彼がロシアと境を接する要地と考えた国後(くなしり)・択捉(えとろふ)の兩島であった。途中またまた水戸に立ち寄ったが「未だ藤田(東湖)戸田(忠敝)に逢うことを得ざれば(謹慎中のため)せんなく出立」(前掲「自筆松浦武四郎自伝」による)と失望した。

国後は寛政元年(1789)、場所請負制度(註14)による過酷な扱いに耐えかねた先住民アイヌが蜂起し、和人(わじん)(中世以来、蝦夷・千島等に移住定着してきた本州系日本人をさす通稱)多數を殺害する事件のあった島であり、武四郎は詳しく当時の事情を調べた。彼はこの頃、日常の会話をほゞこなせる程度にアイヌ語を解していた。

国後から択捉には、島の役人が見廻りに往来する船の賄い方となって渡った。国後・択捉の旅により、武四郎は北海道一周についで、樺太・南千島をも踏破した、おしもおされもしない、当時のいわゆる「蝦夷通」となった。

 

(註12) 武四郎の研究家吉田武三著「定本松浦武四郎」の下巻は「自筆松浦武四郎自伝」を収めている。尤も自伝とあるが、嘉永6年以降の記述は、日記風になっている。

(註13) 会沢正志斎とならぶ水戸藩の学者豊田天巧が、徳川斉昭の命により編集した蝦夷・北蝦夷の沿革と現状を記したもの。5巻よりなる。安政元年幕府に提出、日ロの国境決定の交渉に役立った。

(註14) 米が収穫されなかった昔の北海道の松前藩では、藩士は「場所」(特定の領域)におけるアイヌとの交易権が与えられ、その利益で生計を立てていたが、交易の直營は時々失敗し、また手數もかゝる。それよりも、場所の交易を商人にまかせ、その請負料をとるようになった。請負人は漁業を主とし、また近江商人が多く、アイヌを酷使し搾取の仕放題というのが実状であった。

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最終更新日:    03/05/04