天保の飢饉と加藤木家

 

加藤木賞三の経歴については、人名辞典などにも記載されている。しかし何れも簡単で、しかも主として農業とのかかわりを取り上げたもの(平凡社「日本人名大事典」、講談社「大日本人名辞書」、大内地山編「常總古今の学と術と人」)や、徳川斉昭の雪冤運動と水戸藩党争などに、かかわったことのみを紹介したもの(学藝書林「幕末維新人名辞典」)などで、その全生涯にわたって簡単ながらもふれた刊行物は、本稿その一で引用した「桂村郷土誌」及び「桂史概要」であろう。

賞三は、14歳の時、「農喩」(鈴木武助著、文政8年刊、飢饉の恐るべきことから、それに備えて耕作にはげみ、倹約することの必要を10項目に分けて説いた書)を読み、感動して「力耕(農事につとめはげむ)貯蓄(穀物の備蓄)の志を立てた。父母に乞うて、田畑を買い入れてもらい、これを資産として分家したが、本家の田畑をも合せて耕作に励んだ。

分家したのは、天保3年(1832)18歳の時であった(註4)。賞三が30歳になって故郷を離れる迄、農業に精励したであろうことは、明治維新後に彼が進んだ道からも、容易に想像できるのである。

天保4年(1833)から7年にかけて、冷害・風水害が日本の各地を襲い、わが国は全国的な飢饉に苦しんだ。水戸藩領内も例外ではなく、天保4年と7年に、大凶作に見舞われた。折しも水戸藩は、藩主斉昭の断行した天保改革の最中であった。

天保7年の場合、斉昭が天保2年に復興した稗倉(ひえぐら)(凶作に備えて稗を貯蔵した倉)と、常平倉(註5)とが効果を発揮し、その糧食放出により、多くの飢民が救われた。また藩当局は、大阪にて米を大量に買い付け(これには大塩平八郎が協力した、水戸に運ぶという対策も講じた。

その上に藩は、民間の余裕ある者に、貯穀の義捐を勧めた。賞三は、率先これに応じて籾米(もみごめ)100俵、ついで雑穀類150俵を供出した。このことを聞いた藩内の富裕な者は、争って金銭又は米穀を出捐したから、藩の積極的な対策と相俟って、水戸領内では餓死する者がなかった。

以上は、前述の大内地山の編著と、講談社の人名辞書によったのであるが、これらによると窮民救済は、賞三自身が行ったことになっている。しかし先に引用した「桂村郷土誌」や「桂史紀要」は、救済に関しては賞三につき一語も触れていない。救済は新五郎夫妻によって行われ、孫根を含む近隣15カ村の窮民170名に、天保7年には籾米100俵、翌8年にも大麦・稗・味噌などを与えたという(この時の「御救米渡方帳」−米穀配布の記録が現存している)。

藩主は新五郎に対し「右の者申年(さるどし)(天保7年)凶荒につき、難儀に及ぶ者どものため、救いさし出で候に付、先達て身分御引き立て(中略)、その後またまた施穀」したとして、褒状のほか、褒美の品も下賜した。新五郎が名字帯刀を許されたのは、窮民救済を賞してのこととみてよかろう。

天保7年(1836)といえば、分家したとはいえ、賞三は未だ22歳の独身であった。「農喩」に感動し、「力耕貯蓄」に励んで来た賞三が、逸早く窮民救済のため、自家(本家分家合せて)貯蔵の米穀類供出を提唱したとしても、親の同意なくして実行できるものではない。まして父は庄屋である。加藤木家の救済が、新五郎の名によって行われたのは当然で、それ故にこそ藩は、新五郎に前述の褒状及び褒美の品(これらは加藤木家に現存している)を、与えたのであった。賞三は加藤木家の飢民救済を提唱し、かつその実務にあたったとみて、よいのではなかろうか。

その後賞三は、天保9年(1838)24歳の時、全隈(またくま)村(現在水戸市全隈)園部家の娘を娶り、男子信夫(後に須永家を継ぐ)と、女子せきの二児を得た。しかし弘化元年(1844)30歳の時、妻子を両親に預けて、単身故郷を出た。

恐らく賞三は、そのまま農耕に励んで一生を孫根で終えることを、潔しとしなかったのであろう。彼は次男であり、庄屋の役柄は兄が継ぐ。「知略才識ありて豪毅大胆」な母から受け継いだ血は、彼に一介の農民に甘んじることを許さなかった。賞三の目標は、水戸藩の士分に取り立てられることであり、そのために先ず神職となる道を選んだ。

水戸藩では、一般の藩に比べて神職の地位は高く、士籍に入るのも、農民からの場合に比べて、早道であった(註6)。賞三は家を出た弘化元年に、早速水戸の吉田神社(水戸藩初代藩主頼房の崇敬をうけ、9代藩主斉昭は、弘化元年領内總鎮守とし、社領100石を寄進した)の神職となった。

彼は恐らく孫根在住中に、神職となるに必要な勉強もし、また藩主と関係の深い吉田神社神職に採用されるため必要な運動にも、手抜りなかったのであろう。当時の藩当局の覚えがめでたかった庄屋加藤木新五郎の次男賞三は、吉田神社神職となる確実な見通しをつけた上で、家を出たとみて間違いなかろう。

(註4) 大内地山編前掲書による。なおこの書は、賞三の分家の年を天保2年とするが、前掲「桂史紀要」第3号所載加藤木直の記述に従い、天保3年とした。

(註5) 常平倉は、藩の財力で穀物を貯蔵する施設。豊年で米の値の安い時には、買い入れて値を上げ、凶作の年は逆に売り出して値を下げる。水戸藩の場合、二代目藩主光圀が稗倉と共に創設したが、その後藩政の弛緩と共に立ち消えになっていたのを、斉昭が復興した。

(註6) 「水戸市史」中巻(四)による。

戻る ] 上へ ] 進む ]

最終更新日: 03/05/04