最終更新日: 03/12/31  

 

8 建築関連法第一人者としての活躍

 

管理職となったのをきっかけに、子供達も成長したため既に手狭になった中野区上高田の社宅を引き払い、昭和34年(1959)1月、一家は同じく都内の目黒区衾町115番地の1(現在目黒区八雲町)の社宅へ引っ越した。この社宅は家屋は古いものの敷地が200坪と広大で、門から玄関まで20メートルほどのスロープがあり、庭には竹薮や、柿 の木をはじめ数々の植木が繁り、精一は新しい生活をおおいに気に入っていた。転居と共に3人の子供達も目黒区立東根小学校へと転校させた。

当時大成建設には法務部門がなく、精一はその高い法務知識を買われて暫く前から全国各地の支店、出張所、現場に工事の契約や民事上のトラブルの相談に頻繁に出張するようになっていた。こうして精一は土木建築に関する民事実務の経験を積み、弁護士との交流も深め、また日曜日には必ず机に向かい判例等、法務の勉強を重ね、家の書庫があふれるほどの法律関係の書籍でいっぱいとなった。また精一は、出張時には業務の合間を縫って必ず出張先の街を散策し名所を訪ねることを楽しみにしており、その折には必ず絵葉書を土産として持ち帰り子供に与え土地土地の話を聞かせてやっていた。また時には出張に子供を同伴することさえあった。またこの頃には大成建設を始めとする日本のゼネコンも海外の受注案件が増え始め、精一は国際契約法の勉強も行わねばならなかった。精一はこの頃、こうした関係で交友のあった杉下裕次郎弁護士から、沢山の児童図書を子供の為に貰ったり、更には黒い雑種の子犬を貰いうけ、家族はこの犬にその外貌と毛並みから「ベア」と名付けて長い間大変可愛がった。

この目黒の社宅において、昭和35年(1960)4月には長男健を、昭和36年(1961)4月には次男覚を中学に進学させた。さらに昭和38年(1963)4月には健の高校進学、翌昭和39年(1964)4月には覚の高校進学と裕子の中学進学が同時に重なったりと、子供達の教育のための支出が大幅にふくらみはじめていた。しかし、精一は、月給者として子供達に見るべき資産は残せないとはいえ、「教育こそが子供達の財産になる」との信念で、生活の贅沢をいましめつつ、子供達の教育には決して出費を惜しまなかった。

昭和36年(1961)12月16日夕刻、この家に拳銃強盗が侵入し、居合わせた家族全員に銃をつきつけて現金を要求するという事件が発生したが、47歳の精一は少しも動じることなく冷静に対峙しこれを説得し、僅かな金を与えて返した。

この事件についての新聞記事が残っているのでここで引用したい。各記事の内容が少しずつ異なっているのが面白い:

産経新聞(昭和36年12月17日東京版朝刊) 目黒でピストル?強盗/玄関のベル鳴らし居直る

16日午後8時20分ごろ、東京都目黒区衾町115、大成建設庶務課長加藤木精一さん(48)方で、玄関の呼びリンがなるので、妻の友江さん(41)がドアをあけると、若い男が「主人に会いたい」といった。友江さんはテッキリ会社の者だと思い、奥の居間に通したところ、男はいきなり、ピストルようのものを加藤木さん夫婦につきつけ「金を出せ」とおどした。精一さんが、千円札二枚を出すと男はそれを奪って逃げた。碑文谷署ではピストルは45口径型のおもちゃと見ているが、男は21、2歳、158センチ前後でグレーのダスターコート、グレーのズボンだったという。

東京新聞(昭和36年12月17日朝刊) 目黒に訪問強盗/二千円奪い「ありがとう」と退散

16日午後8時20分ごろ目黒区衾町115会社員加藤木精一さん(48)宅の門の呼びリンが鳴り、妻友江さん(40)が応対に出ると「ご主人おりますか」とダスターコートの小柄なハイテイーンが入ってきた。友江さんが答えようとするといきなり玄関から土足で上がりこみ、居間にいた精一さんら家族5人にオモチャらしいピストルを突きつけて「金を出せ」と脅し、二千円を奪って逃げた。碑文谷署で調べているが、犯人はかなり小心らしくピストルを持つ手もふるえ、金を取ってから「ありがとう」といって逃げたという。

日本経済新聞(昭和36年12月17日東京版朝刊) 目黒に居直り強盗

16日午後8時20分ごろ、東京都目黒区衾町115大成建設庶務課長加藤木精一さん(48)方に「渋谷の大橋ですが」と20歳ぐらいの男がたずねて来た。応対に出た妻の友江さん(47)は会社の人と思って座敷へ通したところいきなりピストルようのものを突きつけ、「金を出せ」とおどし、現金二千円を奪って逃げた。碑文谷署で調べているがピストルはおもちゃらしく、小柄、面長で、グレーのダスターコートに水色のズボン、黒の皮手袋をしていたという。

朝日新聞(昭和36年12月17日神奈川版朝刊) 目黒に少年強盗

16日午後8時20分ごろ東京都目黒区衾町111会社員加藤木精一さん(48)方玄関から17,8歳の少年がはいってきて居間にいた加藤木さんにピストルようのものを突きつけておどし、二千円を奪って逃げた。碑文谷署の調べでは少年は1メートル60センチぐらいで水色ズボンをはいていたといい、ピストルはおもちゃらしい。

 

また精一自身が 昭和36年(1961)12月16日夕刻の強盗事件についての警察調書の原稿と思われるメモを残しており、壮年期の精一の冷静さと剛胆さがよく現れているので、ここ をクリックして参照頂きたい。

精一による記録 を読むと事情がわかるが、犯人が退散してから警察への通報が遅く、かつ間接的通報(記録にある通り警視庁の片渕さんを通じて連絡してもらっている)であった為、警察は、「精一が犯人が誰かということを知っており、犯人をかばっている」のではないかとも疑った。実際には上記の精一自身の記録には一点のみ脚色があり、精一は犯人に”十分間は警察には云わないでやるから早く帰れ”と云ったのではなく、”警察には云わないでやるから早く帰れ。男の約束だ。” と言ったのである。従って犯人も ”有難う” と云って退散したのである。恐らく精一は、この ”男の約束” を守らなくてはと考え、逡巡した結果、直接の通報をせず、間接通報というかたちで自分を納得させたのではなかろうか。なお、この事件の犯人は結局逮捕されず、迷宮入りとなってしまった。

精一は社内では昭和37年(1962)3月、総務部長付、同年11月調査室主査となった。また社外においても翌昭和38年(1963)民事法研究会会員、法律懇話会会員となり、土木建築関連の法律の一人者としてその活躍の範囲を広げ、世間にも名前が認知されるようになっていた。

昭和38年(1963)6月には日本の戦後の復興の象徴のひとつである黒部第四ダム(黒四ダム)が完成し、精一も建設中に何度も工事現場に足を運んだ事情もあって、その感激を大いに味わっていた。思えばこの頃は日本中がゼロからの出発を克服し、ようやく暮らしfていけるようになった頃であった。翌昭和39年(1964)10月には東京オリンピック大会が開催され、高度成長期の真っ只中で50歳の精一は業務に邁進していた。昭和40年(1965)1月、精一は組織改正に伴い企画調査部企画調査室主査となるが業務内容としては変わらず、彼の専門となっていた法務関係主業務を一貫して深めていった。

同年8月17日まさに精一51歳の誕生日に、自宅を新築し、東京都南多摩郡多摩町(現東京都多摩市)桜ケ丘2丁目20番2号に 転居した。社則で社宅居住の満期が50歳となっており、退職金をあてにしての借金で建てたとはいえ、思えば水戸の大空襲で家を失って以来、終戦後約20年間借家住まいを続けた精一、友江夫妻にとって、ようやく夫婦の終の住み家を手に入れることができ、感無量であった。自宅の建築を決意してからは、43歳の友江は自動車運転免許を取得し自動車も購入して、その建築中は目黒の家と桜ケ丘の建築現場間の約50キロの道程を三日と空けず往復して精一に協力した。因みに精一は戦前日立多賀工場で自動車の運転の練習をしたことはあるものの、その後生涯これを行うことはなかった。

昭和41年(1966)4月、精一は参事に昇格した。社外的には昭和42年(1967)10月7日、中央建設業審議会専門委員に就任。同年11月1日、日本建設業団体連合会中小建設振興委員、業法改正委員。翌昭和43年(1968)5月1日日本建設業団体連合会契約改善委員会委員委嘱、法制委員会委員委嘱。

昭和42年(1967)4月は一家にとって大きな変わり目となった年であった。長男の健は1年間の大学浪人生活後東京大学理科T類に入学、同時に次男覚は早稲田高等学院を卒業して早稲田大学政経学部に進学、かつ長女の裕子も東京都立青山高等学校に進学したのである。いずれも喜ばしい限りではあったが、こうも一度に重なると、親にとっては教育費の負担も多大なものがあり、その意味では精一夫妻にとっては最も大変な年であったとも言えよう。

昭和43年(1968)再度の組織改正により綜合企画本部企画部企画調査室主査となったが、ここでも主な業務は一貫して 法務であった。昭和44年(1969)技術開発本部第二開発部と改称、部長就任。

昭和46年(1971)も一家にとっては記憶すべき年であった。同年3月次男覚が、また同年6月( 東大闘争による学生ストライキの為に卒業が延びた)長男健がそれぞれ大学を卒業し、健は住友金属に入社して製鉄所のある和歌山へ、また覚は日本石油に入社して営業経験を積むためにまず広島へそれぞれ赴任してしまった。ようやく子供の教育も一段落ついたとはいえ、二人の男児が抜けたことは家の中が歯の抜けたような寂しさを感じたに違いない。さらに物事は重なるもので同年4月26日、飼い犬の「ベア」が天寿を全うして死去した(12歳)。このため桜ケ丘の家には精一、友江夫婦と、当時桐朋学園に通っていた裕子の3人のみが残る状況になった。裕子は翌昭和47年(1972)に卒業して大成建設の広報部、次いで兼松江商に就職し、暫く両親と過ごすことになったことが精一夫妻にとっては救いであった。

同年5月28日、大成建設に新たに法務部が設けられ、精一は初代の法務部長に就任した。57歳で定年を目前にした精一にとっては、それまで長い間社内で自分が築き上げてきたものが、ようやく法務部という形になった喜びの上に、その初代部長に就任できたため二重の喜びであったといえよう。会社としても今や精一は法務に関する貴重な人材であり、同年8月17日定年を迎えるも、参与として精一を採用し、引き続き彼に法務部長職を委嘱した。 法務部長委嘱はその後5年間に亘り継続することとなる。

 


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