最終更新日: 03/05/04  

 

本社復帰/高度成長時代

 

精一に東京本社へ本社総務部庶務課文書係長として転勤が命ぜられたのは昭和28年(1953)の3月1日であった。突然の発令であったのでまず精一は単身で東京へ赴任し、当時中野区上高田2丁目386番地に3軒あった社宅の一軒に家族の為の住居を準備して、その年の7月1日、家族を迎えに仙台に行った。当時は東北本線の蒸気機関車で仙台から上野まで長時間掛かり、途中の小山付近で日が暮れ家族ともども大変心細く、夕焼けを背景に黒ずんだ山とたくさんの烏が飛んでいた情景は永く家族の語り草となった。

当時の中野はまだ武蔵野の面影が残り、畑が散在したり、赤とんぼがとんでいたりする大変良い環境であった。家のすぐそばには進駐軍の通信用のアンテナが5本も高く聳えめずらしく、また小さいながらも庭のある一戸建てであったため一家はおおいにこれを気に入りここで新生活を開始した。こうして家族5人そろって東京に落ち着いたのものの、驚いたことには当時6歳の長男の健および5歳の次男覚が小児結核に掛かっていることが判明した。健は幼児期に同居していた叔母の幸子から結核菌を貰っていたのである。寝込むほどの重症ではなかったが健が完治するまでの約3年間、毎週幼い健の手をひいて関東バスに乗って新宿の都立大久保病院まで健の血沈検査をし、「ストマイ」を打って貰いに通うのが妻友江の勤めとなった。 また健の治療には この頃 川崎に開業していた 星重冶にもたいへんな世話になった。

昭和29年(1954)に長男健を、翌年には次男覚を、更に昭和32年(1957)には長女裕子を順次小学校に入学させた(中野区立上高田小学校)。その前年(昭和31年(1956))には裕子にクラシックバレーを習わせるなど、社宅は僅か2間と狭かったものの、戦後のゼロから始めて精一はようやく幸せな家庭を友江と共に築き上げていくことができた。友江は苺、いちじく、とうもろこしなど野菜を庭に育て、精一はビニールで小さな池をつくり、金魚やめだかを泳がせて楽しんでいた。

精一は子煩悩でこの頃長男健が急性盲腸炎で都立大久保病院に入院した際、あまりに嫌がって泣き叫ぶので、医師の制止を振り切って手術台の上の健をとりあげ自宅に連れ帰ってしまった。医者からは「死んでも知りませんよ」と言われたが、精一は西式療法に依り約二ヶ月間、健に野菜の汁を絞った所謂「青汁」だけを飲ませて完治させてしまった。

                                     

広島出張 (昭和30年(1955)8月)   総務部伊豆旅行(昭和31年(1956)6月2日) 

会社の方では、精一は曲がったことの嫌いな硬骨漢として上司に可愛がられ、昭和31年(1956)12月、社史発刊準備委員会の幹事を委嘱されこの仕事を全うすると共に、翌昭和32年(1957)8月には総務部庶務課長心得、翌々昭和33年(1958)4月には副参事/総務部庶務課長と念願の管理職になるに至った。精一43歳であった。戦争のため入社年齢が32歳と大幅に遅れたことを考えると極めて早い出世であり、社内ではこれを嫉む同僚もあった。 実際 精一は法務に精通しており これを認める上司もいたのだが 反対する上司もおり このため精一本来の役務とは異なる庶務課長という役職に就くこととなったという。 精一にとっては当時は極めて不本意な処遇であった と後に妻友江が語っている。

しかし精一は庶務課長としてもその業務に全力を尽くした。 このころ大成建設では毎年天皇誕生日(4月29日)に豊島園で本社全社員、家族を挙げての大運動会を開催するのが恒例であり、当時庶務課長の精一は数年に亘り毎年これを指図し企画、実行する役目を行うこととなった。これは数千人の参加者を有する大規模な催しで、当時高度成長下の日本とそれを牽引するゼネコンを象徴する行事であった。もちろん精一の家族も一家で毎年これに参加し、友江も中央の大テントに社長の横で小柄な背筋を伸ばして陣頭指揮を執る精一の姿に感慨を覚え ていた。

 


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