最終更新日: 03/05/04  

 

9 晩年の精一

 

定年後の法務部長職の委嘱は一年ごとの契約であったが、会社は精一を必要としたため毎年契約を延長し、昭和49年(1974)8月17日、還暦を迎えた精一はなお矍鑠と業務に励み、同年9月1日には私法学会会員にもなった。昭和50年(1975)10月1日、組織改正により管理本部法務部長就任となったが、ついに翌昭和51年(1976)4月1日に精一62歳を前にして5年間に亘る法務部長委嘱を解嘱され、精一は後進に道を譲ることとなった。精一の会社におけるその後の処遇はすぐには決まらなかったので、精一は法律関係の友人のつてで職を探し、同年6月沖縄大学からの教授招聘の打診をうけたが、同時に会社からも改めて子会社の大成道路で精一の経験を尚活かしてほしいとの要請を受けたので、沖縄大学の話は丁重にお断りし、同年8月18日、子会社の大成道路に法務担当理事として出向することとなった。この大成道路にはその後昭和61年(1986)まで10年にもわたり勤務し、最後は週に1−2日と頻度こそ少なくなったものの、仕事に情熱をもっていた精一の定年後の良い生き甲斐となった。まことに会社の精一に対する処遇にはありがたいものがあったが、これも精一の誠実さと、曲がったことの嫌いなまっすぐな性格が皆に好感された結果ともいえよう。

この間、子供達はそれぞれ配偶者を見つけ、また孫達も誕生していった。まず昭和50年(1975)5月11日に広島に赴任していた次男覚が、同年10月26日に裕子が、翌昭和51年(1976)5月30日には健がそれぞれ結婚式をあげた。特に、二人の男児が東京を離れたあともなお桜ケ丘の家に残っていた裕子が、とうとう高橋家に嫁いだことにより、精一夫婦は桜ケ丘で二人きりの生活となり、精一は気ままに大成道路に出勤しながら悠悠自適の生活を送ることとなった。この頃から年に一度は夫婦で日本各地をのんびり旅して廻るようになった。また昭和51年(1976)9月29日に裕子に初孫として長男威が誕生したのを始めとしてその後昭和56年(1981)までの5年間に3人の子供達に合計 8人の孫が誕生し、この点精一は大変恵まれていたといえよう。

精一は54歳頃から突然高血圧症となったが、このため却って体によく気をつけたこともあり、その後健康には特に大きな問題も無くすごしてきた。しかし、70歳を超えたころから両眼共に白内障となり、昭和61年(1986)頃には歩行にも支障がでるほど重症になってきた。色々薬も試したりしてはみたが、好きな学術書を読むこともままならなくなり、精一はすっかりふさぎこみ、同年9月末日をもって大成道路を退職することをも決意した。ところが当時新しい治療法として、濁った水晶体をすっかり除去し、人工の水晶体と置きかえる手術が登場し、入院期間も僅か数日という情報を得た精一は、早速友江に手をひかれて武蔵野赤十字病院の清水公也医師を訪問し、この手術を受けることとなった。まず左眼を昭和61年(1986)7月11日に、更に右眼を同年11月28日に順次手術した。手術は成功し、精一の眼は完全に回復し、むしろそれまで使用していた眼鏡が不要となり、すっかり元気を取り戻すに至った。まことに医学の進歩は有難いものである。

昭和天皇が崩御し、世は平成を迎えた。 平成2年(1990)年末に 精一は 法句経の1節を自ら和訳し 亡くなるまで書斎の壁に掲げていた。 如何なる心境であったものか 今となっては覗う術もない。

 

 

このころ精一たち兄弟は年に一度ささやかな会を開き、都内で昼食を採りながら互いの近況を語り合うことを楽しみにしていた。

平成3年(1991)5月30日の兄弟会

前列左から 友江 露子 好江 大久保稔      後列左から 定子 星重治 博 精一

後列 定子 友江 前列 好江 露子

またこの頃から精一は 毎朝仏壇に向け「般若心経」 を唱えることが日課となった。 これまで精一と関係の深かった人々も少しづつ鬼籍に入ることが増えてきた。まず平成4年(1992)8月9日に妹幸子の夫であった増山薫氏が亡くなった。享年82歳であった。次ぎに平成6年(1994)姉好江の夫君大久保稔氏が89歳で、翌平成7年(1995)3月11日未明には かつて大東紡織浜松工場長を務めていた弟の博が75歳で逝去した。博の妻定子は博の逝去の6年後、平成13年(2001)8月13日に亡くなった。享年77歳。

平成8年(1996)8月17日には 子供たちにより 友江との金婚式をかねて 精一の誕生日を祝う食事会が 目黒の椿山荘で開催された。 精一夫妻は大いに楽しみ 昔話に歓談し 至福のひとときを過ごした。

平成10年(1998)7月19日 精一が慕っていた姉の好江が87歳で亡くなった。 このためでもあろうか その直後の同年(1998)7月21日 精一は心不全で多摩南部地域病院に入院することとなった。 その少し前 同年(1998)7月14日には 妻友江が買い物の途中で子供の転がしたサッカーボールを蹴り返そうとして大腿骨を骨折し 手術のため同じ多摩地域にある北島整形外科に入院をしていたので 夫妻同時に入院という事態になった。 夫妻は互いに連絡の手段もなく 相手の様子を毎日ひどく心配していた。 このため徒歩10分ほどしか離れていない両病院には 子供や孫たちが交代で訪れ 互いの状況を知らせることが日課となっていた。 精一の右肺には水が溜まっており これを抜く治療が施され 同年8月12日には早くも一時退院できるほどまでに回復した。 退院した精一は早速14日に友江の病院を見舞い 夫妻は久々に顔をあわせて 互いの無事を喜び合った。 同年8月19日完治。 精一はその後はすっかり回復し 塩分や水分の摂取過多に気を遣いながらも 再び元気な毎日を過ごせるようになった。

同年(1998)10月10日朝6時37分 妻友江の兄で江東区で歯科医を開業していた青木軍次郎が84歳で亡くなった。精一は青木軍次郎と同年の生れであるうえ、精一は南方からの帰還、軍次郎はシベリア抑留からの帰還というように戦争体験を共有しており、 長年の精一の歯の治療を超えて、両名は生涯深く交誼を保っていた。

平成13年(2001)11月28日には 妹露子の夫君 星重治が93歳で逝去した。戒名 医徳院慧空重遠居士。

翌平成14年(2002)7月には 次男の覚一家が 勤務先の新日本石油の札幌 福岡 広島 支店勤務を経て 久しぶりに東京本社へ戻ることとなり 都内 目黒区へ転居してきた。 老いた精一夫妻はこれを心強く思い たいへんに喜んだ。

平成14年(2002)12月19日 精一は月2回検診に通っていた 近所の天野医院で診察を受けた。 精一は風邪気味でやや体調不良であったため、同医院で点滴を受け 一旦帰宅したが 翌日も体調が思わしくなく 妻友江の強い希望もあり 同20日天野医院に入院した。 精一は 4年前と同様 こんどは左肺にたまった水のために 身体への酸素の補給が十分ではなく これが体力を消耗させる原因となっていたので 酸素を吸入しながら肺の水を抜く治療を受けることとなった。 入院中の精一は大変疲れた様子ではあったが 意識ははっきりとしており 見舞いに訪れた親戚・家族とも相応の受け答えをしていたが ついに力尽き 平成14年(2002)12月23日午後2時37分 枯れるように息をひきとった。 その前日には精一も自らの死期を悟っていた様子で 見舞いに訪れた長男の健が 「肺の水が抜けたら楽になるから」 というと 少し笑って 「楽になるときは なんまんだぶだ」 と応答えていた。 また 訪れた孫たちには 見舞いに感謝しながらも それぞれ就職したばかりの仕事や 学業の妨げになってはいけないと心配し 最後までしっかりと意識を持ち 周囲に迷惑をかけない 見事な成仏であった。 享年88歳。 水戸の神応寺に葬られた。 戒名 法寿院徳阿精道居士。

葬儀には1000名以上もの会葬者が列を成し、精一の勤務していた大成建設・大成道路からも 精一の退社後すでに15年以上を経過していたにもかかわらず60名もの同僚・後輩が参列した。 誠に精一の徳が偲ばれる。 合掌。

精一の兄弟姉妹のうち 最後まで長寿を全うした 妹露子は 平成20年(2008)5月19日、91歳で逝去した。戒名 華徳院紫月妙露大姉。

妻友江は 精一の死後も桜ヶ丘の家をひとり守りつづけていたが 子供や孫たちが時折訪問するものの 何年もの孤独な生活は寂しく また緑内障を発症したこともあって 幻覚を見るようになり 平成20年(2008)ごろから 世田谷区下馬に住んでいた次男覚のマンションの1部屋に住まわしてもらうようになった。

平成18年(2006)3月 友江の米寿祝

左から 健 覚 裕子 友江 由紀江(覚妻) 起司子(健妻) 高橋勇(裕子夫)

平成21年(2009)3月10日 90歳の誕生日に桜ヶ丘の自宅で

食欲も回復し 幻覚を見ることもなくなってすっかり元気を取り戻した友江であったが 外を歩くことが少なくなり 平成25年(2013)7月にはひどくなった足のむくみをとるため2週間ほど国立第二病院へ入院した。 退院後の経過は順調であったが 平成25年(2013)8月24日 覚宅で昼食にスパゲティを堪能し 夕方 孫の秀隆と 数か月訪問を控えていた桜ヶ丘の自宅に翌週は一度戻ってみようと相談を終えた数分後に 突然大量に吐血し救急搬送されたが還らぬ人となった。 動脈瘤破裂という診断であったが 足にできた大きな血栓が大動脈に移動して動脈を詰めたのではないかと推測される。享年93歳。最後まで気持ちをしっかりと保った 大往生であった。

友江は水戸の神応寺に精一と共に葬られた。 戒名 法華院寿弌妙友大姉。 合掌。

(精一の項 完)

 


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