最終更新日: 13/09/28  

 

6 仙台時代

 

母ゆうの初七日にあたる昭和22年(1947)2月13日、共に仙台に同居していた精一の妹幸子が突然喀血した。幸子は戦時中勤労動員で水戸市役所の事務に駆り出され、そのときの同僚から既に結核に感染していたのであったがいよいよ喀血という事態に至ったのであった。狭い家ではあったが精一は座敷に幸子の布団を敷いてやり安静にさせて養生につとめさせた。当時結核は不治の病とされていたが、結核の特効薬「ストレプトマイシン」(「ストマイ」と呼ばれていた)が売り出されたので、精一は妹露子の夫で医師の星重治の助力を仰ぎ、お腹の大きくなった友江と共に少ない給料をやりくりして高価な薬の購入に奔走して妹の養生を助けた。

当時は戦後の激しいインフレで、会社も運営に大変苦労していた。給料を月2回に分割したり、年末の賞与も年が明けて仕事始めの日にようやく支給できるといった状況であった。また精一も公職追放の身であり、東京本社へ出張するにもいちいち所轄の警察署への届出を必要とし、大変不自由な生活であった。

同年4月1日には精一は正社員として営業課営業係に配属された。月給は僅かだが320円にあがった。

 

川内の建設現場で (昭和21年(1946)9月 撮影)

同年11月23日、長男健(けん)が誕生。精一が健の字を考え、あと一字を友江に考えさせたが思いつかずそのまま命名したという。精一33歳、友江26歳の当時としても遅い第一子であった。これも戦争のなせるわざである。精一は自身が小学校時代家族と離れ水戸で他人の中で暮らしていたこともあり、自分は子供達と友達のような関係のある家庭を築きたいと常々友江と話していた。

翌昭和23年(1948)2月1日付で総務課に配属され、同時に月給も1250円にあがった。

この頃、結核に臥していた妹幸子と以前縁談のあった増山薫氏(鳩時計の製造販売を行っていた)がはるばる茨城県土浦市から仙台まで訪ねてみえ、「やはりどうしても幸子さんを嫁に迎えたい」と兄の精一に申し入れてきた。しかし幸子の結核は更に重くなってきており、床から起きることもかなわず、精一は「お気持ちは有難いが、幸子はもう死にますよ」と言って断ったが、増山氏はどうしてもと聞かず、最後には精一も折れ、「短い一生であるのならば、せめて花嫁姿をさせてやりたい」と結婚に同意した。幸子は病身をおして茨城県土浦市に嫁いでいった。その後、増山氏は幸子を大変可愛がり、病状の良いときには大子、袋田の滝、筑波山、時には遠く東京までつれて行き、幸子を喜ばせたが、やはり病は重く、7年後の昭和30年(1955)10月19日に亡くなった。享年30歳の若さであった。 戒名 桂光院貞順妙幸大姉。 増山家の菩提寺である 川崎市の延命寺に葬られた。 妹思いの精一はかねて古賀メロデイーの「泣くな妹よ」で始まる「人生の並木道」の歌を好んでいたが、幸子が夭逝してからはなおさらこの歌を小さく口ずさむことが多くなっていた。 なお夫君の増山薫氏は長命し 平成4年(1992)8月9日に亡くなられた。享年82歳。戒名法光院政岳薫栄居士。 幸子と同じく川崎市の 延命寺に葬られた。

翌昭和24年(1949)3月13日次男覚(さとる)出生。名前は精一が憲法学者の黒田覚より命名した。

精一は同年4月1日には晴れて職員に昇格、月給も2250円となった。その後も仙台での業務は順調で、翌昭和25年(1950)には庶務係長に昇格、同時に業務に必要な衛生管理者の資格も取得し、月給は2970円となった。精一は得意の英語力を買われて時には会社で進駐軍相手の交渉などにも駆り出され、その際には当時貴重であったチョコレートなどの物資を入手して家族に土産として持って帰ることもあった。

 

同僚と蔵王登山 (昭和25年(1950)11月3日 撮影)

宮城県建設業協会主催第1回卓球大会に出場し優勝 (昭和26年(1951)3月4日)

後列右から3番目 精一 前列中央 宇野支店長 その右 義兄大久保稔課長

瀬見温泉社員旅行 (昭和26年(1951)5月5日)

 

翌昭和26年(1951)7月5日、長女裕子が出生。精一が昭和天皇の御名「裕仁」から一字を頂いて命名した。

日本ビール竣工式 (昭和26年(1951)8月5日)

   

会津若松社員旅行 義兄大久保稔 その長男 俊郎 次男 勝弘 と(昭和26年(1951)11月3日)

会社では、同年9月1日には工事会計係となり、月給3550円。引き続き9月7日には晴れて公職追放解除の身となった。その後昭和27年(1952)1月には仙台雑工事作業所へ、同年7月25日には読売東北総局作業所へと現場を担当して廻った。現場に変わってからはつきあいで酒量もふえ、冬の夜などには精一の帰りを待って一家が「だるまストーブ」を囲んでいると、雪の降る中遠くから大声で歌いながら土産を持って帰宅し、精一の歌声が聞こえてくると愛猫を含む家族が玄関まで出迎えるといった構図が繰り返された。この猫は家族一同によくなつき、酔った精一に何度も放り投げられてもまた擦り寄っていくひとなつこい猫であった。

こうして 雪深い仙台での生活は 精一が東京へ転勤する昭和28年(1953)の春まで 足掛け8年間続いた。

 


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