最終更新日: 13/10/08  

 

5 青木友江

 

友江は大正10年(1921)3月10日に父青木庸富(つねとみ)と母カヨの間に、当事 父庸富が駅長を 勤めていた福岡県門司市大字門司684番地の1において出生した。 父庸富は明治5年(1870)5月10日に茨城県西茨城郡下市毛村四十六番屋敷(現在の笠間市)に旧笠間藩士青木庸信(つねのぶ 嘉永2年12月朔日出生)・ ひさ(旧姓海老沢 嘉永6年7月5日出生)の長男として生まれた。 父庸富は逓信学校を卒業後、 明治31年(1898)27歳で駅長の資格を得、逓信省鉄道作業局九州鉄道局に配属され 熊本に駅長として赴任した。母カヨ(旧姓森)は明治16年(1883) 10月21日 福岡県三池郡二川村大字濃施340番の1の1の1に生まれ 明治32年(1899)父庸富の熊本駅長時代に庸富と結婚した。16歳の若い嫁であった。(婚姻届は明治36年6月24日。)

友江は6人兄妹の末子で 3人の兄と2人の姉がいる。 父康富の勤務の関係で 兄妹の出生地は 長兄の庸彦は 明治36年(1903)9月3日 福岡県門司の出生であるが、続く 敏子(明治42年6月13日出生)は 佐賀県鳥栖、美恵子(明治44年8月15日出生 )、軍次郎 (大正3年12月27日出生) 、鋭三郎(大正6年10月7日出生後に南支で戦死)の3名は 熊本県飽託郡春日町といずれも九州管内ではあるもののそれぞれ出生地が異なる(長兄の庸彦の後、2名嬰死)。

明治40年(1907)4月1日には逓信省鉄道作業局は帝国鉄道庁となり、明治41年(1908)12月5日には鉄道院と改称し、さらに大正9年(1920)5月には鉄道省が創設された。 父庸富は人望もあつく 酒に酔って足で電信機を操作するなどというところもあり 皆に慕われていた。 大正3年(1914)1月の桜島の大正大噴火は 離島であった桜島が本土と地続きとなるほどの大きな噴火であり 父庸富は先頭に立って鉄道の被災状況を検分するなど多忙な勤務であった。

父庸富は九州鉄道局長までのぼりつめ、正五位勲4等を叙勲した後 大正14年(1925)友江4歳のとき鉄道省を退職し (永年鉄道官吏)、頼まれて熊本の私鉄の経営にあたった。このとき父庸富は友江を含む家族を茨城県西茨城郡笠間町 (現笠間市)大字下市毛189番地の実家に帰したため 友江は笠間で小学校に入学することとなった。しかし単身赴任はさびしく その後父庸富は末子の友江を熊本に呼び戻したため 友江はわずか1年後には熊本の小学校に転校することとなった。

昭和2年(1927)4月8日、一家は熊本城御幸坂に観桜した後、写真館で記念の撮影をしている。

        

青木庸富一家(昭和2年(1927)4月8日 熊本にて)

鋭三郎(後にニューギニアにて戦死)庸彦 庸富 友江 美恵子 カヨ

昭和3年(1928)1月4日 笠間にて

庸彦 友江 軍次郎 庸信 美恵子 鋭三郎 庸富 ユウ 敏子 カヨ

 

   

勲五等雙光旭日章 (勲四等は所在不明)

しかし 熊本での私鉄の経営は 思わしくなく 赤字を重ね、 父庸富は会社の莫大な借金に苦しみ 神経を消耗して、昭和6年(1931)引退を決意し余生を笠間で過ごすこととなった。 このため友江も小学5年で笠間の小学校に復学し、その後昭和9年(1933)水戸高等女学校に進学した。 当事の水戸高女は 笠間市からは僅か4名が入学を許されるといった難関であった。

昭和8年(1933)4月1日 水戸高女入学

成田さん 黒川さん 友江 青柳先生(小学担任)

昭和9年(1934)1月4日笠間にて

庸富 美恵子 直哉 誠(高毛礼:後シャンソン歌手) カヨ 鋭三郎 友江

       

昭和9年(1934)2月 水戸にて         昭和9年(1934)8月 水戸にて       昭和11年(1936)8月 水戸にて

友江は昭和12年 (1937)水戸高女を卒業し、その後水戸で2年間和裁を学んだ。

昭和15年(1940)1月1日 笠間にて

父庸富の強い勧めもあり 友江は 昭和15年(1940)4月に東京目黒のドレスメーカー女学院に入学し、洋裁を学んだ。 姉の敏子がすでに松澤太平氏と結婚して大森区新井宿2丁目1711番地に新居を構え、書籍商を営んでいたので友江はもう一人の姉美恵子とともにそこに寄宿し、目黒まで通うこととした。 速成科は4ヶ月で卒業(昭和15年(1940)7月25日)したが このころ友江は不慣れな環境下で呼吸器系統を害したため 2ヶ月ほど笠間の実家に戻り 当事すでに 東北帝大を卒業し水戸市仲町で外科医を開業していた長兄 庸彦に薬を貰いながら療養していた。

完治後 洋裁が大好きとなっていた友江は ドレスメーカー 女学院 研究科に戻ったが  その直後 昭和15年(1940)10月10日に 父庸富が自宅で脳溢血で倒れ逝去した。享年 69歳。

昭和15年(1940)10月10日 庸富逝去

美恵子一家と 昭和16年(1941)笠間にて

直哉 誠 (高毛礼)友江 潔 美恵子

父の死後も 友江は研究科で学び 昭和16年(1941)3月に卒業、和裁の勉強で培った丁寧な仕上げが評価されたため 師範科への進学を許された。 同年12月8日には日本軍は真珠湾を奇襲し米英に宣戦布告、わが国は第二次世界大戦の泥沼へとはまっていった。当事日本は戦争が迫っており ドレスメーカー女学院在学中は友江は同級生とともに 制服で 被服省に勤労奉仕に従事することもあった。

   

昭和17年(1942)3月 東京目黒にて          同 数寄屋橋にて(街頭写真屋撮影)

昭和17年(1942) 友江はドレスメーカー女学院師範科を卒業し 笠間の実家へと戻った。  速成科入学者360名余のうち 2年後に師範科を卒業できたのは僅か32名という厳しさであった。 水戸の長兄 庸彦はすでに軍隊に召集されていたので 水戸で暮らすことはできず 友江は笠間の実家で洋裁を教えていた。  敗色が濃くなるにつれ 笠間には水戸をはじめ各地から兄弟一家が疎開してきたため 裏庭に防空壕も掘り 広い笠間の家も 狭く感じられるほどであった。

長姉の敏子は 前述のごとく 水戸商業出身の松澤太平氏に嫁し、東京都蒲田区にて書籍商を営み1男3女をもうけていたが 羅災により 一家で笠間の青木家に仮寓していた。

次兄の軍次郎は 東京都城東区にて歯科医を開業し、2男をもうけていたが 3回目の応召にて満州出兵中 終戦を迎え、 ソ連に連行され復員しないままの状態であった。 空襲で家を失った一家は笠間の実家に仮寓していた。

また 姉の美恵子は神戸高等商船出身の高毛礼(たかもれ)氏に嫁し、4男をもうけて熊本に住居を構えていたが 戦災により一家ともども笠間の実家に仮寓していた。 高毛礼氏は復員船の機関長の職にあり多忙を極めていた。

5歳上の兄 鋭三郎は南支戦線から南方戦線へと移動し 昭和18年(1943)8月11日午後4時30分ごろ ニューギニア・サラモワにて戦死した。 27歳の若さであった。 のちに友江の夫となる精一がニューギニアのフイシハーフェンに上陸する僅か12日前のことであった。

昭和20年(1945)8月に終戦を迎えた友江は 兄が通っていた水戸の教会の紹介で 昭和21年 (1946)9月8日、南方戦線から帰還した水戸の加藤木精一と結婚した。 精一32歳、友江25歳であった。 結婚祝いとして 精一夫妻に 聖公会神学院長で戦地から帰還された 森譲 砂 夫妻より ミレーの「晩鐘」が贈られた。 精一夫妻はこの絵をずっと居間に飾って毎日心の糧にしていた。 友江は 後に精一が亡くなっても これを自分の部屋に最後まで大切に飾っていた。

ミレーの「晩鐘」 裏書に 祝聖婚 昭和21年9月8日 森譲 砂 加藤木精一様 友江様 と読める

慌しい 時期の結婚であり、また民法の親族法の改正直後でもあったため、入籍は婚姻からちょうど1年後の 昭和22年(1947)9月8日に仙台市で届出された。

母カヨは 笠間で長命し 昭和36年(1961)9月6日 孫に囲まれながら 没した。 享年78歳。

昭和21年(1946)撮影

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