最終更新日: 11/01/11  

 

1 精一の生い立ちと両親

 

加藤木精一は大正3年(1914)8月17日、父加藤木常男の当時の勤務地であ り かつ安生家に寄留していた東京市京橋区月島 仲通り9丁目9番地で、常男と母ゆうの長男として生まれた。精一誕生の6日後には、日本がドイツに宣戦布告をし第一次世界大戦に参戦するという、騒然とした時代の只中であり、精一を産んだばかりの母ゆうは、当時35歳の働き盛りであった父常男が、いつ徴兵に取られるかと大変心配したという。父常男は 明治12年(1879)1月5日、加藤木甕とふきの間に、常男の父甕の当時の赴任地長崎で生まれた。常男の妻ゆうは明治21年(1888)6月24日に、群馬県前橋市曲輪町で、父小三郎、母まつの間に2女として生まれ、茶道華道等の道を躾られて育った。また常男と結婚後も、常男の祖父賞三の後妻もと子に小太刀、長刀、小笠原流礼儀作法等士族の家系としての一切を厳しく教え込まれた。実際もと子は、精一の母ゆうを目の中に入れても痛くないほど可愛がったようである。元来もと子は士分の出自であったので、素養はあったといえ町民の出のゆうを、加藤木の家に相応し厳しく躾けてやろうと考えたようである。母ゆうもよくこれに従い、家をしっかりと支える妻に成長して行った。

生後50日の精一 と 姉 好江 (大正3年(1914)10月5日撮影)

父常男は技師として逓信省に勤務し、郵便局長として各地を転々としていた。当時の郵便局は現在の郵便、電信、電話の3業務を兼ねていた。精一の姉好江は精一の誕生の3年前、明治44年(1911) 3月17日に東京市本郷区湯島天神町2丁目33番地で誕生していたが、精一の誕生の後も大正6年(1917)2月21日には東京府豊多摩郡淀橋町大字柏木72番地で次女露子が、大正9年(1920) 7月15日には奈良県宇智郡五條町大字須恵16番地で次男博が、更に大正12年(1923)2月10日には岡山市下石井20番地で三女幸子といった具合に5人の兄弟姉妹それぞれ誕生の地が異なっている。

精一1歳のときの一家 (大正4年(1915)撮影)

左から 母 ゆう 父 常男 精一 姉 好江

精一がその後もずっと記憶にとどめていた 大阪在住当時の思い出がいくつかある。

大阪では大洪水があった。当時一家は大阪の十三に住んでいたが、精一はそのとき淀川の洪水を経験している。水嵩は増して床上浸水となり、精一は姉の好江と襖を外した押入れの中段にいれられた。父母はその間に家の重要なものをどこか安全な所に避難させに行ったらしい。開け放された玄関の外は、川のように水が流れ、舟が通っていた。その後、誰か男の人に皆抱えられて近所の風呂屋の2階に避難した。当時は汲み取り式の便所であったため、水が引いてからは石灰の散布など、消毒が大変であった。

また大正7年夏には米騒動があった。米騒動は富山県から火がつき全国に伝播し、大阪にも飛び火した。第一次世界大戦、シベリヤ出兵を利用し 米価を釣り上げていた大商社、大商店など 米を扱う店は焼き打ちにあった。精一は 母ゆうの背に負われて暗闇の夜空が火勢で赤くなっていたのを遠くから見ていて怖かったとよく話していた。

精一は大正8年(1919)、すなわち小学校入学の前年に、入学の準備のためひとり家族と別れ、祖母ふきの住む茨城県水戸市梅香へ戻り、その後高等学校卒業まで水戸で育つこととなる。精一が水戸へ移る際には、群馬県前橋市に住んでいたゆうの母まつがはるばる五条まで孫の精一を迎えに来た。まつと精一は途中、伊勢に一泊して伊勢神宮を参拝し、翌日東京経由で精一にとっては見知らぬ地である水戸へと向かった。生まれて初めて両親と離れた最初の夜、幼い精一は伊勢の宿の二階の出窓から市電が走る際に発する架線のスパークをじっと見ながら不安を紛らせていた。また精一は途中富士山を見るのを楽しみにしていたが、富士山の傍を通りすぎる際にはあいにく日没を過ぎており、車窓からは何も見えず、祖母まつは身振りで「昼間だったらこんなに傍に見えるのにねえ」と残念そうに精一に示したので、精一はその後暫くの間、富士山といえば窓と目と鼻の先にあるような大きな山を想像することになった。

ところが精一が水戸へ戻った時には、水戸の屋敷には祖母ふきのほか、叔母の梅子(平川正寿氏に嫁ぐ)一家が住みついており、精一は平川一家にたいへん屈折した感情を持つことになった。 これは元来 精一の曾祖母 もと子と 祖母 ふき とが嫁姑の折り合いが悪く、 もと子が孫の常男の嫁(精一の母)ゆうを大変に可愛がったことから、 今度は ふきとゆうとの嫁姑の関係がうまくいかなくなったことが幼い精一に影響を与えたと思われる。 ふきは 長女の梅子(および平川一家)を大変かわいがり、 精一の母ゆうはこれを決して快く思っていなかった。 このため母を大変慕っていた精一がこれに影響され平川一家の存在を好ましいとは思わなくなった。 平川家の名誉のために申し添えると 特に平川一家が精一に冷淡であったとは考えにくい。 現に精一の姉の好江は平川一家とたいへん仲がよかったという。 しかし母の影響を受けた多感な年頃の精一は様々な面で大変悔しい思いをしたと回想している。あるとき梅子の夫平川正寿が米国短期留学から帰国したとき、精一への土産が色とりどりの薬の空瓶で、精一は「いくら子供とは云え空瓶とはひどすぎる」 と心の中で憤慨したという。また毎年小作が米を納めに来たのだが、平川一家はそれを平気でいくらでも只で食べていたことも、精一にとっては理不尽に映ったらしい。そうした中で、幼い精一にとっては、遠く離れた両親から毎月送ってくる月刊誌「小学1年生」と、それに同梱されてくる少しのお菓子だけが楽しみという、寂しい日々をすごした。また時折前橋にいた母方の祖父母を訪ねては可愛がってもらっていた。精一はその後も兄弟姉妹とは大変仲がよかったが、幼年期のこの体験のためか兄弟姉妹以外との親戚とは、晩年に至るまで付合いを大変に嫌った。

精一の父常男は几帳面かつ物静かな性格で、長女の好江をよく可愛がり、音楽を好み、自身ハモニカ、オルガン、ヴァイオリンなどを演奏したほか、"Japanese songs"という小冊子を作成し日本の歌曲を手書きで1-7の数字でハモニカ譜に示し好江に与えたり、また好江に筝を習わせ自らも合奏したりして楽しんでいたという。好江はこの手書きの楽譜の小冊子を生涯たいせつにしていた。また常男の遺した住所録からも、彼の几帳面な性格が拝察される。また子供達にも自分をパッパ、妻をマンマと呼ばせ、当時としては進歩的な家庭を築いていた。

それに対し、母ゆうは曾祖母もと子に鍛えられたしっかり者で、たとえば大阪で妹の露子を妊娠中、雨の日に町を歩いている時掏りにあったが、とっさに掏りの手を雨傘で叩いて撃退したという。これをたまたま目撃した近所の店主が、さすがと感心したと伝えられている。また小笠原流の行儀作法が厳しいことは有名で、後日精一に嫁いだ友江が、その友人から「よくぞあの作法の厳しい姑につかえる決心をした」と感心されたという。精一はこの母ゆうに心服しており、自分の今日あるは母のおかげであると後々まで述べていた。

 


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