書籍の中の加藤木
「ハルディン・アメリカ(JARDIN AMERICA)移住史」
http://alto-parana.hoops.ne.jp/nikkei/jardin.html#yurai
日本からアルゼンチンへの移住目的の集団移住は1908年から、 正式の外務省認可による移住は1913年からはじまりました。
現在アルゼンチン全体における日系人の数は約3万人といわれています。
ハルディン・アメリカには約60家族の日系人が暮らしており、 その大半は、戦後日本から移住してきた人やパラグアイに入植後転住してきた人たちです。
「我らが楽園 ハルディン・アメリカの由来」
ハルディン・アメリカ市在住の日系1世のかたによる
ハルディン・アメリカの由来と移住の歴史について。
「我らが楽園 ハルディン・アメリカの由来」
ミシオネス州、州都ポサーダス市より100キロ、アルト・パラナ河の流れより 10キロ一帯の緑豊かな、うねりの丘に、我らが楽園ハルディン・アメリカがある。
その昔、この森を流れるタバイ川が、アルト・パラナ河に注ぐ辺りに、ヘスイータス部落の小さな教会があったと、語り草に残っている。さすれば紀元1700年頃には、 サン・イグナシオやサンタ・アナなどのヘスイータス部落とを結ぶための、 アルト・パラナ河を上下するグワラニーの民の丸太船の往復で、タバイ川はさぞかし 賑わっていたことであろう。また、この部落の民たちは毒蛇に噛まれた時の 毒止めの薬も持っていたし、マラリア熱病を退治するキニーナの木の外皮の効力も 知っていたと伝えられる。密林の中で生きていく知恵を持っていたのだ。しかし ヘスイータス神父の宣教部落が他権力に渡されると共に、グワラニーの民は 再び野生に還り、森を彷徨する民に戻った。
1933年頃、このタバイ川一帯にコロニア・サン・ペドロ・タバイが創られ、 日本人、長谷才助一家が入植したとの古い記録が残っている。
そのコロニア実現に参加した一人であるホセ・メンデス老が未だ 矍鑠(かくしゃく)であられると聞いたのでその家に訪ねてみた。
93才になられた老人は喜んで迎えてくれ、古い記録を持ち出して次のような 昔話を語ってくれた。
「あの時代はラジカル党の天下で、新しく起こった町や村にレアンドロ・アレムとか アリストブロ・デル・バージェとかのラジカル党の著名政治家の名を冠するのが 流行っていた。私の父はレーモス、シオソーニとの三人合資で、タバイ川流域 5000町歩の原始林に日本人殖民地を創る大構想のもとに、内田千尋農林技師の 協力を得、氏を最高管理人とするコロニア・サン・ペドロ・タバイを発足させた。 しかし、一年も経たないうちにブエノス・アイレスにウリブルの軍事革命が起こり、 イリゴージェン大統領はマルティン・ガルシア島に幽閉され、その軍事政権の政令に よって日本人だけの集団移住地は禁止されてしまった。別に日本人に罪があったから ではなく、ラジカル党のやった計画だからご破算にせよ、という訳だ。そんな 事情で、せっかくの大構想はつぶされ、投げ出さねばならなかった。返す返すも 残念至極だ。また長谷一家とともに加藤木憲太郎一家も入植しているはずだ。
加藤木の家族は今もハルディン・アメリカの町に住んでいるよ。」
ちなみに長谷家、加藤木家は1929年頃、帰山徳冶さんの呼び寄せで北海道から ミシオネスの森に入られた。
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「標津町120年の足跡」
かつて 松浦武四郎も訪れた 北海道根室の標津町の歴史に 加藤木繁太郎が 戸長として記録されています。 http://shibetsu.sake.or.jp/history/his-1.html
1895年 明治28年 3月21日 加藤木繁太郎戸長任。〜1899年6月27日まで。
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「箱根駅伝名勝負ー加藤木貞次」
箱根駅伝名勝負1
第1回箱根駅伝は、1920年(大正9年)2月14、15日の両日に行なわれた。“日本マラソン界の父”と呼ばれたストックホルム五輪マラソン代表の金栗四三が前年の大正8年秋、マラソンの普及、強化を目指し、とりわけ関東の学生を強くしようと駅伝レース開催を計画。報知新聞社の寺田瑛企画部長に話を持ち込み、説得。実現にこぎつけた。
当初は、満州−東京間、アメリカ大陸横断レースなどの壮大な企画も持ち上がったが、国内のレースで、ということに落ち着いた。水戸−東京間、日光−宇都宮−東京間なども候補に。結局、風光明媚で史跡に富む東海道を下り、「天下の険」と詠われた箱根の山に挑み、東京に戻るコースに決定した。大会の趣旨には関東の大学もいくつか賛同したが、10人を揃えられない大学が多く、慶大、明大、早大、東京高等師範(現在の筑波大)の4校が参加した。この年の秋、慶大と明大は校内ですでに東京−箱根間片道駅伝を行なっていたのは、あまり知られていない。早大の7区には、後に衆議院議員となり、日本陸連会長も務めた河野一郎がエントリーしている。
2月14日午後1時、日比谷の報知新聞社前をスタート。4校のランナーは威勢良く飛び出した。高等師範、明大…とたすきをつなぎ、5区のトップ・明大の沢田英一が中継所に飛び込んだ時は、午後8時半を過ぎていた。
「僕が走る頃にはスッカリ日が暮れちゃって。人気も無く真っ暗。転ばないように走ったけど、たまに砂利が積んであって、よくそこに突っ込んだよ」 こう語った4区を走った慶大の加藤木貞次は、第70回大会を迎える直前の93年暮れに94歳で他界。
第1回大会出場者40人はすでにこの世を去り、箱根の歴史の長さを物語っている。
レースは9区までに、明大に11分30秒差をつけられた東京高師・茂木善作が猛追。新橋でついに追いつき、最後は25秒差をつけて大逆転勝ちした。数々のドラマはこの時から始まっていたのだ。
第1回を走った学生の中から、大浦ら3人がこの年のアントワープ五輪に出場した。今やEKIDENとして世界の“公用語”となった駅伝レースの夜明けにふさわしいエピソードの連続だった。
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「加藤木理勝(参院事務総長・国立国会図書館長)」
1996年4月29日 勲一等瑞宝章受章
同時に受章した方々は
飯島宗一(名古屋大学長)/稲葉興作(日本商工会議所会頭)/宇佐美忠信(全日本労働総同盟会長)/加藤一郎(東京大学長)/菅野弘夫(東宮大夫)/小林庄一郎(関西電力株式会社会長)/佐藤庄市郎(最高裁判所判事)/下河辺淳(国土事務次官)/首藤尭(自治事務次官)/芹沢守利(京浜急行電鉄株式会社社長)/高橋弘篤(建設事務次官)/田原隆(法務大臣)/長洲一二(神奈川県知事)/浜本万三(労働大臣)/藤島昭(最高裁判所判事)/村瀬敏郎(財団法人日本学校保健会会長)/渡辺宏(東京瓦斯株式会社会長)
1997年11月9日逝去 享年73歳(産経新聞訃報による)
加藤木 理勝氏(かとうぎ・まさかつ=前国立国会図書館長、元参院事務総長)9日午前6時15分、急性心不全のため千葉県我孫子市の我孫子つくし野病院で死去、73歳。水戸市出身。自宅は我孫子市東我孫子1の29の21。通夜は11日午後6時から、葬儀・告別式は12日午前10時から千葉県柏市柏1302の1、ライフケア柏会堂で。喪主は妻、澄子(すみこ)さん。
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「余生の薫風−続・空っ風人生」
斎藤虎雄氏の著書 余生の薫風−続・空っ風人生 に第二次大戦中のヤップ島における 加藤木工兵隊の記事が掲載されておりますので ご紹介します。
書籍名 余生の薫風−続・空っ風人生
著者名 斉藤虎雄
発行社 朝日出版サービス
総頁数 438
発行日 1990年10月 日
序(渡辺衛/石崎達)
むかしばなし
◎むかしばなし ◎親に先立つ ◎むかしのこと ◎結婚 ◎こじれた町村合併 ◎一枚の写真から
◎近眼と通信簿 ◎祭りと伝統芸能 ◎五十年前の田舎芝居
ヤップ島の降伏
◎「軍歴」のいきさつ ◎ヤップ島の危機 ◎ヤップ島の降伏 ◎ヤップ島の落書き
◎加藤木工兵隊 ◎軍隊生活の制裁 ◎ヤップ島からの帰還 ◎魚津さんの思い出
◎市村さんの死を悼む ◎ヤップ島のガァヤンさん ◎黄昏 ◎急逝した千田さんを惜しむ
◎三重野元参謀よりの親書 ◎ヤップ島戦闘状況 ◎後ろめたさと運 ◎大往生 ◎海を泳ぐ
人生の妙味
◎人生の妙味 ◎自費出版をふり返って ◎思い出は悲しく強く ◎秋山さんの作品
◎まじめ人生だった山本さん ◎書くよろこびと幸せ ◎日曜随筆と私 ◎随筆仲間 ◎文章教室
北極圏の上で
◎北極圏の上で ◎WHOを訪ねて ◎ニースの日本文化週間 ◎奥能登旅情
◎ニース会 ◎心配ご無用 ◎オーストラリア夢旅行 ◎星野さんをお見送りして
◎指導者講習会 ◎日台文化交流会 ◎日米親善の一こま ◎日本の心をうたう
◎紫桜先生吟詠葬 ◎詩吟の温習会
快い疲労感
◎快い疲労感 ◎字ができる ◎ささやかな親善 ◎教室文化祭の今昔
◎無欲の中の欲 ◎娘の自動車免許証 ◎周囲の善意に支えられて ◎石塚さんとの別れ
◎一老書学生の手記を読んで ◎心の習字 ◎教室だより
余生の薫風
◎還暦からの人生 ◎青木さんの死 ◎深刻な福祉 ◎民生委員十二年
◎思考は果てしなく ◎チャコの死 ◎老の考察 ◎暗い題材 ◎転勤こぼればなし ◎招き猫
◎忘れられない日 ◎二病息災 ◎試練に耐えて、今…… ◎雪かき ◎路傍に耐えて
◎朝の運動 ◎区民懇話会
あとがき(堀江武)
編集後記
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「榎本武揚」
満坂太郎氏の著作 「榎本武揚」 の中に加藤木某が登場するので紹介します。
この加藤木某は その内容から推察し 加藤木重教であると思われます。
文献名:
PHP文庫 み-16- 1 「榎本武揚」 満坂太郎 著
ISBN4-569-57048-8
P 317 - 318
その電信機にまつわるエピソードがある。
ある日のこと、電友協会長であった加藤木某が、珍品を手に入れたからとそれを持参した。
「古物商から手に入れたのですが、昔の電信機だそうです」
「これは...........」
と、榎本は絶句した。それはまぎれもなく懐かしい電信機だったからだ。
日本に持ち帰った電信機を開洋丸の艦将室に置いていたが、江差で艦とともに水底に沈んでしまった。
ところが、その電信機が漁師の網にかかり引き上げられた。そして、古物商などの手を経て加藤木の手に渡ったようだ。
榎本は、その思いがけぬ再会に思わず目をうるませたという。
(以下略)
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「裸の自衛隊」
別冊宝島編集部編の「裸の自衛隊」のなかに、浅野恭平氏が 「航空自衛隊・新田原基地探訪記」を記されておられ、その中に 加藤木一浩氏に関する記述があるので 紹介します。
文献名:
宝島社文庫 533 「裸の自衛隊」 別冊宝島編集部編
ISBN4-7966-1564-4
P 154
基地の中で、二人の若いパイロットに会った。 202飛行隊の大石辰男(三尉・27歳)と301飛行隊の加藤木一浩(二尉・28歳)である。二人とも、先輩パイロットに比べるとまだあどけない。
(中略)
F-4EJに乗る加藤木は、東京都新宿区の生まれ。大工の長男。姉一人。埼玉県立川越高校を卒業後、防大に進学。パイロットになれたのは同期生のなかで20人しかいない。63年、操縦訓練が終わると、すぐに新田原に配属になった。
「飛行機乗りになるのは夢でした。だから進学のときは、防大のほかに航空大や航空保安大、航空学生課程なんかも考えました」
(以下略)
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