「加藤木 重教」
明治から大正にかけて わが国の電気通信の発展に貢献した 加藤木重教 の関連情報をできる限り収集しました。
もしご家族の方などこれをご覧になりましたら よろしければ 重教氏に関するより詳しい情報を頂けませんか?
「歌碑」
(福島県在住 橋本捨五郎さんからの情報)加藤木重教の歌碑が三春町北野神社境内に、彼の父直親の顕彰碑が、三春大神宮境内にあります。
橋本捨五郎
* 管理人註: 本件さらに調査したいと思います。 貴重な情報ありがとうございました。
「日本人名大辞典」
1857‐1940 明治-昭和時代前期の電気技術者。
安政4年3月15日生まれ。工学寮でまなび,工部省をへて田中製作所(のちの芝浦製作所)にはいる。明治22年渡米し,電話機,電話交換機の製作を実習。24年日本初の電気雑誌「電気之友」を創刊した。昭和15年12月1日死去。84歳。陸奥(むつ)三春(福島県)出身。著作に「日本電気事業発達史」。
「電話機使用問答」
加藤木重教 著
「日本電気事業発達史」
加藤木重教 著
「人物・近世エレキテル文化史」
田村栄太郎, 雄山閣出版株式会社, 1985.6
電気技術者列伝。類書が少ないだけに貴重である。電話関連では、東芝の前身として通信電機類を製造・修繕に着手(田中久重)、電信局の下請工場から沖電気を創立(沖牙太郎)、電話機の改良普及と電話交換法の研究(加藤木重教)、など。
「もしもし」の誕生
1890年(明治23年)12月16日に東京の電話交換が始まった。それに先だって電話交換の交換実験が行われた際の説明書きには
『ここにおいて受容者は、聴音器を両耳にあて、器械の中央に突出する筒先を口にあて、まず「おいおい」 と呼びにて用意を問い合わせ「おいおい」の声を発して注意し、先方よりの承諾の挨拶あるを聴音器にて聞き取り、それより用談に入るなり』
とあるので、一番最初の問いかけの言葉は「おいおい」だった。
当時、電話を持っている人は高級官僚や実業家などの偉い人ばかりだったので、このような偉そうな挨拶になったのかも知れない。ちなみに一番最初の電話帳には「渋沢栄一・158番」「大隈重信・177番」などの名前が掲載されている。
この当時「おいおい」に対しての受け手の応答は「ハイ、ヨゴザンス」に決定されていた。 もしもしとは「申す申す」が変化して出来た言葉だが、当初は男は「おいおい」女は「もしもし」だったらしい。 「もしもし」に統一されたのは明治35年頃と言われている。
この「もしもし」を考案したのは、電話を日本で設置する際に 研修ということで、明治23年にアメリカに渡った加藤木重教だと云われている。その時、アメリカの電話では「ハロー/Hello」と言う言葉を使っていたが、この言葉を説明する日本語がどうも判らない。そこで、「もしもし」という言葉を必死に考え出したものが、現在まで続いている。
「わが国初の白熱灯の点火」(東京大学工学部電気工学科資料)
工部大学校発電機について:
藤岡市助の設計により、明治19年に工部大学校工作所で製作した2号発電機である。明治年間の電気工学科の事務室主任であった牧野良兆はこの発電機について次のような覚書を残している。
藤岡博士の設計にして、明治19年(1886年)工部大学校作工場にて製作したるものにして、略125電圧40電流(推定)なり。工部大学校書房に60個の白熱電燈を点火したり。憲法発布当日、帝国大学正門に電燈をもって万歳の2字を表し祝意を現したるとき、この発電機を使用したり。此時約100灯の白熱燈を点火せんとして成功せず、80灯に減じて満足なる結果を得たり。
ところで、藤岡設計の1号機は白熱電灯用の国産最初の発電機とされているが、その製作所は資料によって相違が見られる。
まず牧野は
藤岡博士の設計にして、明治17年工部大学校作工場に於いて製作したるものなり。但し、鋳物は川口鋳物所に依頼せしめたり。蓋し本邦製発電機最古のものとす。銀行集会所新築祝いに於て電燈を点火せり。
加藤木(重教)によれば、
…東京電燈会社は東京銀行集会所より同所の開業式に点火すべき白熱電燈の装置依頼に応じ藤岡氏設計監督の下に同所に三吉電気工場製エヂソン型10キロワット直流発電機を据付け40個の白熱電燈の点火を試みたり。
東芝85年史には
明治18年11月29日、東京銀行集会所の落成記念式典が行われた際、会場と余興のすもう場に40個の白熱電灯が点じられたという。これは藤岡市助の設計、監督により、三吉電機工場が製作したわが国最初の5kW白熱電灯用分捲発電機を用いて…
とある。
また加藤木重教は 明治27年12月に 米国(The Brush Electric. Co.)製ブラッシュダイナモを工部大学校に寄贈しており、これは東京大学工学部電気工学科に現存している。
「電気通信大学60年史」
電気通信大学60年史総目次前編序章
第二節 日本における無線通信の黎明
2-1 研究を開始
わが国がヘルツ波無線電信の実質的な調査・研究に着手したのは、マルコー二の電波式無線電信の発明が伝えられた後であるが、無線通信という意味からいえば、導電式や誘電式も一つの無線通信である。わが国無線通信の先覚者工部大学校(後の東京帝国大学工科大学)志田林三郎教授は1885年(明治18年)電気試験所の加藤木重教氏を指導して導電式無線電信の実験を行い、学術上または実験的にはある程度成功している。しかし、実用上からみれば電波式無線電信導入から研究が開始されたことになる。
マルコー二の電波式無線電信の発明については、1897年(明治30年)5月、英国郵政庁技師長フリースがこれに関する講演を行い、その内容が雑誌エレクトリシャンに掲載されてわが国に伝えられた(一説には同年1月のイギリス新聞の記事で知ったともいう)。
雑誌エレクトリシャンの記事は、逓信省航路標識管理所石橋絢彦所長から電気試験所長浅野応輔博士に伝えられた。浅野所長は松代松之助電信主任に伝え、ヘルツ波無線電信の研究を命じ、逓信省内に無線電信研究部が設けられて、本格的な研究が開始された。
マルコー二の発明の詳細については秘密に付せられており、一雑誌の記事が唯一の参考であったから、理論の研究、機器の試作・実験などに多大の苦心が払われ、実験用部品はすべて自作するなど幾多の難問を克服しながら試験を進めた。
研究はまずコヒーラーから始められたが、同年十一月には実験施設が完成して、東京の月島と品川第五台場との間で実地試験を行う準備ができた。
「榎本武揚」
満坂太郎氏の著作 「榎本武揚」 の中に加藤木某が登場しますが、その内容から推察して この加藤木某は 加藤木重教であると思われます。
文献名:
PHP文庫 み-16- 1 「榎本武揚」 満坂太郎 著
ISBN4-569-57048-8
P 317 - 318
その電信機にまつわるエピソードがある。
ある日のこと、電友協会長であった加藤木某が、珍品を手に入れたからとそれを持参した。
「古物商から手に入れたのですが、昔の電信機だそうです」
「これは...........」
と、榎本は絶句した。それはまぎれもなく懐かしい電信機だったからだ。
日本に持ち帰った電信機を開洋丸の艦将室に置いていたが、江差で艦とともに水底に沈んでしまった。
ところが、その電信機が漁師の網にかかり引き上げられた。そして、古物商などの手を経て加藤木の手に渡ったようだ。
榎本は、その思いがけぬ再会に思わず目をうるませたという。
(以下略)